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サッチモ事情 (外山喜雄さん(6期)が執筆するコーナーです)
他の書物ではわからないサッチモやジャズミュージシャンを中心とした情報です。
このコーナーはOBだけでなく全てのジャズ好きの皆様にお薦めします。また、
日本ルイ・アームストロング協会:ワンダフルワールド・ジャズ・ファウンデーションに膨大な情報があります。
更新内容は以下
2007.04.28
皆様、偶然メディア3紙、誌に、ルイ・アームストロング、及びハリケーン支援関連記事が同時に掲載されます。
・音遊人(ミュージン) ヤマハ音楽教室全員に配付 書店でも販売
4月25日発売
ハリケーン・カトリーナのその後をニューオリンズ現地取材
日本ルイ・アームストロング協会の支援活動を紹介
現地で活躍中のOG渡辺マリさんも登場 <−−(※管理人註)
・月刊 プレイボーイ 来日ジャズの巨匠達 来日ジャズの巨匠達の特集
4月25日 発売 ルイ・アームストロングの楽屋に忍び込みトランペットを
吹かせてもらったエピソードを紹介
サッチモがラーメンを啜る写真がすばらしい <−−(※管理人感想)
・日刊スポーツ ニューオリンズの子供達へ楽器を 楽器を送って下さった皆さんの
心温まる手紙と逸話 4月29日から5日間の連載
ニューオリンズへ贈呈する楽器のストックもまた増えると思います。ニューオリンズ出身、大活躍の若手トランペットのニコラス・ペイトンからも、ニューオリンズで被災し、音楽教師のお父さんが教える学校に、楽器を寄付して下さい、、と依頼の手紙が来ています。すっかり破壊され復旧の進まない第九区(ナインス・ウォード)の小学校にも楽器を送ります。
現在もすでに30点ほどの楽器の寄付をいただいています。要修理の楽器は、新宿の楽器商、グローバル・コーポレーションの楽器修理学校、グローバル管楽器修理技術学院の、若い生徒さん達がボランティアで修理を引き受けて下さっています!!!
楽器(トランペット、クラリネット等、50点またはそれ以上になりそうです)は、8月に開催されるジャズ祭、サッチモ・サマーフェスト出演でニューオリンズを訪れる機会に、8月4日ルイ・アームストロングの誕生日に私達が現地で贈呈式を行う予定です。
2007年2月20日、ニューオリンズの街は有名なカーニバル、マルディグラの祭を市をあげて祝いました。当日の現地の新聞タイムスペキューンには、ハリケーン以来支援の手をさしのべた人々に、感謝のコメントが掲載され、日本からの楽器への謝辞も述べられています。
こちらを御参照いただければ幸です。
日本ルイ・アームストロング協会 外山喜雄 恵子
外山喜雄 恵子 初めてのニューオリンズから40年 記念シリーズ・コンサートご案内
外山喜雄、恵子がご案内するサッチモ・ワールド
私達、外山喜雄・恵子は、サッチモことルイ・アームストロングに憧れ、
1967年12月 移民船ブラジル丸に乗ってニューオリンズへジャズ武者修行に出かけました。
2007年の12月に私達のニューオリンズ・ジャズ武者修行船出40年を迎えます。
これを記念して、ニューオリンズが生んだ偉大なジャズマン、
ジャズの王様と呼ばれるルイ・アームストロングに捧げるシリーズ・コンサート好評開催中です。
ハリケーンで大きな被害を被ったジャズの故郷ニューオリンズ。ハリケーン襲来直後から,
私達は日本ルイ・アームストロング協会の活動を通じニューオリンズ支援活動を続けてきました。
被災当時のまま捨て置かれ、忘れ去られ、全く復興の進まない黒人居住地区、、、、。
ルイ・アームストロングは1901年ニューオリンズのスラム街に生まれ、銃を発砲して少年院に入れられトランペットと出会いました。ジャズの王様サッチモのジャズは、その後世界中の音楽に影響を与えます。、スラム街の教会のゴスペルや、ジャズパレード、ジャズのお葬式、紅灯街の酒場の音楽、、、そんな生き生きとしたサッチモとジャズを生んだ街、ニューオリンズの黒人音楽の伝統がなくなろうとしています。
ジャズと世界の音楽にとって、いかにニューオリンズが大切な街であるか・・・・このサッチモの足跡を辿るシリーズが、そのことを皆さんに知っていただく一助となれば幸いです。
外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールドは、世界的ルイ・アームストロング研究家を自認するが外山喜雄と外山恵子がラッパとバンジョー片手にサッチモの世界を解説、ゲストにジャズ評論家瀬川昌久さんをお迎えし、1901年にサッチモが生まれたニューオリンズの街の音楽から、シカゴへ、NYへ、世界へと飛翔して行くサッチモの足跡を、当時の音楽の再現、珍しい当時のサッチモのジャズ映像も含め、サウンド、ビジュアル、トークでお送りしているシリーズ・コンサート。すでに、第一回 “サッチモ少年が聴いたジャズ”1921〜1922 (2005年6月開催) 第2回 “サッチモの黄金時代 1 1923〜1928(2006年1月開催) を終了し、今回がシリーズ第3回目となります。
ルイ・アームストロングとたどるジャズの歴史 全5回 第3回 サッチモの黄金時代 (2)
1929年〜34年ニューヨークからヨーロッパへ
・・・・・そして昭和初期の日本のジャズへの影響
第一部 サッチモ、ニューヨークへ 第二部 ヨーロッパへ、、、そして世界へ
1929年 サッチモは活躍の舞台をシカゴからニューヨークへと移しますニューオリンズ伝統のジャズ表現とジャズ曲、そこで培われたジャズセンスは、ポピュラーソングの世界との出会いでさらに大きく開花します1929年のNY録音、そして1934年パリ録音まで当時の小編成フルバンドを再現世界へ飛翔するサッチモの名演を辿ります!!同時代のデューク・エリントンのバンド再現も二曲、さらに、昭和初期の日本のジャズも当時の音源から採譜、再現、サッチモがアメリカと世界と日本に与えた影響を探ります。
1月11日(木) 18:30〜21:00 アテネフランセ文化センター(御茶ノ水)
監修:ジャズ評論家 瀬川昌久 構成:外山喜雄
出演:外山喜雄・恵子とデキシー・セインツ 外山喜雄(TP, VO) 外山恵子(P) 鈴木孝二(CL)粉川忠範(TB)藤崎羊一(B) ゲスト:ジミー・スミス(D)下間哲(TP)小林俊郎(Sax)広津誠(SAX)ボーカル 祥子
お問い合わせは:日本ルイ・アームストロング協会 (047-351-4464 090-2494-9826 携帯)
E-mail:saints@js9.so-net.ne.jp HP: http://wwjf.seesaa.net/
<追記> アメリカのカトリーナ・ブログ・サイトに“サッチモとニューオリンズは世界を変えた”、、
連載中!! “Beyond Katrinaモ にアクセスyoshio and keiko toyama の項を御参照下さい。
ルイ・アームストロングは1901年ニューオリンズのスラム街に生まれ、銃を発砲して少年院に入れられトランペットと出会いました。ジャズの王様サッチモのジャズは、その後世界中の音楽に影響を与えます。、スラム街の教会のゴスペルや、ジャズパレード、ジャズのお葬式、紅灯街の酒場の音楽、、、サッチモとジャズを生んだ街、ニューオリンズの黒人音楽の伝統がなくなろうとしています。私達 外山喜雄・恵子は、アメリカのカトリーナ・ブログ・サイトに“サッチモニューオリンズは世界を変えた”を連載中。アメリカでは、殆どの人がサッチモとニューオリンズが世界の音楽に与えた影響の大切さを知りません。(ルイ・アームストロングは最初に月面着陸した人と思っている人が多いそうです。)
そんな中、私達のブログへの投稿は、大きな波紋を起こしています。
日本ルイ・アームストロング協会では、ニューオーリンズでのハリケーン被害が報道された直後にから支援活動を開始しました。領事館や現地在留邦人、当協会と縁の深いミュージシャン、JAZZ関係者らと連絡を密に取りながら、被害状況をホームページや会報、号外などで詳細に報告、現地からの生の声を伝えて会員はもとより、広くジャズファンに救済のための協力を訴えてきました。
各方面から義援金が次々と寄せられてくるなか、サッポロビールの快諾を受けて昨年10月10日(月、体育の日)、今回の「サッチモ祭」と同じ会場、恵比寿麦酒記念館・銅釜広場で、当協会とサッポロビールの共催による「ニューオリンズ支援・緊急チャリティーコンサート」が開催されました。外山喜雄とデキシーセインツほか13バンドがチャリティー出演し、なかには他の公演をキャンセルしてまで馳せ参じてくれたバンドもありました。入場者も延べ3000人を突破し、この日だけでも180万円の募金が寄せられました。
地方のアマチュアバンドによる支援コンサートなどもあって、これらの会場での寄付金も当協会へ寄せられてくるようにもなりました。ライブハウスやジャズ喫茶、レストランなどでもカウンターに募金箱を置いて、来客からの浄財を集めてくれるところも出てきました。こうしたジャズを愛する皆さん方によるささやかながらも力強い支援活動は、北海道から九州にまで“草の根運動”となって広がっています。
日本ルイ・アームストロング協会ニューオリンズ基金に全国から
寄せられた義援金が1000万円を超える!
ハリケーン・カトリーナで被災したニューオリンズのために、全国のジャズファン、ジャズバンド他の皆様から多額のご寄付が寄せられました。
お陰様で、日本ルイ・アームストロング協会ニューオリンズ募金に寄せられた義援金は2006年12月15日現在10,419,250円となり、1000万円を超えました!!!
全国の皆様のご協力に、心より感謝致します。日本ルイ・アームストロング協会に寄せられた義援金は、文字通り日本全国のジャズファンの皆様から寄せられた、サンクス・ジャズ、サンクス・ニューオリンズのお心のこもった暖かい寄付金でした。
北海道から楽器を送って下さった方、九州でニューオリンズ支援チャリティーコンサートを開催して下さった方、徳島、石川、福井、青森、宮城、山形、新潟、栃木、埼玉、岐阜、京都、大阪、兵庫、静岡、千葉、神奈川、そして東京ビッグバンドのお仲間と、また、ジャズ喫茶やジャズクラブのお仲間と・・・また、職場の仲間と、ニューオリンズへの寄付を集めました!!そのようなジャズとジャズの故郷への思い入れのこもった、心からハート・ウォーミングな御寄付でした。是非ニューオリンズのミュージシャンの為に役立てて下さい、と言う皆様のお気持ち、それに答えるために、日本ルイ・アームストロング協会では、会報、ホームページ、ブログでもご報告してきましたように、昨年から今年にかけ、ニューオリンズのミュージシャンを支援している次の団体に、皆様の善意のお気持ちとともに寄付をお送りしました。
プリザベーション・ホール:New Orleans MusiciansHurricane Releif Fund 23,000ドル超
リンカーセンター:Higher Ground HurricaneReleif Fund 10,000ドル
Jazz Foundation of America Help New Orlenas Musicians Now に 10,000ドル
Arabi Wrecking Krewに10,000ドル
他諸団体への寄付を合わせ計700万円近くを寄付し、今後も200万円近くの寄付を計画しています。
皆様のご協力に心から感謝いたします。ありがとう御座いました。
ニューオーリンズ支援コンサートと“感謝の集い”
「第26回サッチモ祭」の開催のお知らせ
2006年6月 日本ルイ・アームストロング協会
ジャズの故郷、そして聖地でもある米ルイジアナ州ニューオーリンズに壊滅的な被害を与えたハリケーン<「カトリーナ」。その襲来からまもなく1年を迎えようとしています。この衝撃的なニュースを受け、いち早く支援ののろしを上げた私たち「日本ルイ・アームストロング協会」(ワンダフルワールド・ジャズ・ファウンデーション=WJF)では、以後、会長の外山喜雄・恵子夫妻が中心となって支援コンサートの開催や、現地への募金を会員に呼びかけなど、幅広い活動を続けてきました。この結果、6月はじめまでに各方面から寄せられた義援金は815万円を超えています。これらの現地への送金に加えて、楽器を失ったミュージシャンや子供たちへの各種楽器の急送も進められています。
そんな中、今年も熱―い夏のイベント「サッチモ祭」(第26回東京ニューオリンズ・ジャズフェスティバル)を下記のとおり開催する運びとなりました。ジャズとジャズの王様、サッチモの愛称で知られるルイ・アームストロングの故郷の復興を祈ってジャズ仲間たちが大集合する「ニューオーリンズ支援チャリティーコンサートと“感謝の集い”」です。早稲田大学のニューオルリンズ・ジャズ・クラブのフレッシュな部員の皆さんも、全員が駆けつけボランティアとして今年も協力してくれます。入場無料で、毎年、延べ3000人のファンが集まります。
ニューオリOBの皆様方にも、ぜひご来場をお願いする次第です。お待ちしております。
◇
日時:平成18年(2006年)7月17日(月・海の日)
正午〜午後7時(お客様のご都合にあわせ、ご来場は自由です)
場所:恵比寿麦酒記念館「銅釜広場」
(恵比寿ガーデンプレイス内、サッポロビール本社地階)
出演:キャナル・ストリート・ジャズ・バンド、ザ・サーフサイド・ストンプ、セカンドライナーズ、大丸リユニオン・ジャズメン、デキシー・ドランカーズ、デキシー・ダンディーズ、デキシー・ショーケース、ドクター・デキシーセインツ、ナッチェス・ジャズバンド、ニューオリンズ・ノーティーズ、ハイタイム・ローラーズ、バンジョーストンパーズ、フィジティーフィート・ジャズバンド、ラグピッカーズ、リバーウォーク・ストンパーズ、早稲田大学ニューオルリンズ・ジャズ・クラブ(五十音順)
そして「外山喜雄とデキシーセインツ」が掉尾を飾ります。(演奏は午後6時頃からとなります)
外山喜雄(tp,vo)、外山恵子(pf,bj)、鈴木孝二(cl)、粉川忠範(tb)、藤崎羊一(b) 特別ゲスト:ジミー・スミス(ds,vo)
主催:日本ルイ・アームストロング協会
協賛:恵比寿麦酒記念館
(有)ノラミュージック
協力:サッポロビール株式会社
サッポロ飲料株式会社
お問い合わせは:日本ルイ・アームストロング協会(047-351-4464)
E-mail:saints@js9.so-net.ne.jp
HP:http://users.tapstep.net/saints/
<追記>
日本ルイ・アームストロング協会では、ニューオーリンズでのハリケーン被害が報道された直後にから支援活動を開始しました。領事館や現地在留邦人、当協会と縁の深いミュージシャン、JAZZ関係者らと連絡を密に取りながら、被害状況をホームページや会報、号外などで詳細に報告、現地からの生の声を伝えて会員はもとより、広くジャズファンに救済のための協力を訴えてきました。
各方面から義援金が次々と寄せられてくるなか、サッポロビールの快諾を受けて昨年10月10日(月、体育の日)、今回の「サッチモ祭」と同じ会場、恵比寿麦酒記念館・銅釜広場で、当協会とサッポロビールの共催による「ニューオリンズ支援・緊急チャリティーコンサート」が開催されました。
外山喜雄とデキシーセインツほか13バンドがチャリティー出演し、なかには他の公演をキャンセルしてまで馳せ参じてくれたバンドもありました。入場者も延べ3000人を突破し、この日だけでも180万円の募金が寄せられ、募金者に手渡された特製缶バッジやストラップは大変な人気となり、今も問い合わせが絶えません。
この間、会員やファン、来場者から協力の要請も相次ぎました。地方のアマチュアバンドによる支援コンサートなどもあって、これらの会場での寄付金も当協会へ寄せられてくるようにもなりました。ライブハウスやジャズ喫茶、レストランなどでもカウンターに募金箱を置いて、来客からの浄財を集めてくれるところも出てきました。こうしたジャズを愛する皆さん方によるささやかながらも力強い支援活動は、北海道から九州にまで“草の根運動”となって広がっています。
義援金の大半は既にニューオーリンズなどのジャズ関係者、団体に送られています。主な支援先と金額は次のとおりです。
プリザベーションホールNew Orleans Musicians Hurricane Relief Fund 22,660ドル
(ニューオリンズの伝統的ジャズを演奏する世界的に有名なホールのミュージシャン支援基金。)
リンカーセンター Higher Ground Hurricane Relief Fund 10,000ドル
(リンカーン・センターのCEOデレック・ゴードン氏が代表を務め、ウィントン・マルサリスが音楽監督を務めるハリケーン被災ミュージシャン支援の基金。)
Jazz Foundation of America Help New Orleans Musicians Now 10,000ドル
(ジャズ・ファウンデーション・オブ・アメリカは、ハリケーンで楽器を失ったミュージシャンに楽器を贈る活動を続けている)
計42,660ドル(約510万円)を寄附、また、楽器を失ったジャズメン達を助け、楽器を贈る基金としても使わせていただいております。
また、現地ニューオーリンズでは楽器を失ったミュージシャンも少なくなく、演奏したくても不可能な状況を強いられているケースが目立ちました。現地からの悲痛な声を聞くや否や当協会ではトランペット、サックス、トロンボーンなどを購入、現地へ急送いたしました。今年2月に開催されたニューオーリンズ最大のお祭り「マルディグラ」では、ブラスバンドの行進の中でこれらの楽器も活躍しました。
当協会の活動の原点である「サッチモの孫たちに楽器を!」(活動約10年間でニューオーリンズの恵まれない子供たちへの音楽教育用に500本を超える楽器を寄贈しています)も継続中で、最近、当協会に送られてきた楽器54本超は、日本通運ペリカン便の協力により“ペリカン州”ルイジアナの被災地へ出発しました。さらに外山夫妻とデキシーセインツが今年も、サッチモの誕生日を祝うニューオーリンズのジャズ祭「サッチモサマーフェスト」に招かれているのを機に、あらためてツアー客ともども直接、現地へ“手荷物”として送り届け、ルイ・アームストロングの誕生日の前日にあたる8月3日には現地であわせて日本からの楽器の贈呈式が行われる予定です。
日本ルイ・アームストロング協会の寄附、他 2006.5.5
by 管理人
日本ルイ・アームストロング協会の寄附について、掲載されています。
〜・〜・〜・〜・〜・ルイジアナ州トラベル・アップデート〜・〜・〜・〜・〜・
ハリケーン「カトリーナ」被災からの復興アップデート
カトリーナ被災から約7ヶ月が過ぎ、壊滅状態だったニューオリンズから次々と
復興のニュースが飛び込んできます。ニューオリンズとルイジアナ州の代表的なイ
ベント、マルディグラが小規模ながら無事開催され、何にも負けないニューオリン
ズ魂を世界に向けてアピールしたのも記憶に新しいことです。さて、ニューオリン
ズの次の大きなイベントはJazz Heritage & Festivalです。イベ
ントは4月28〜30日と5月5〜7日の両週末に予定されています。今年は、ブルー
ス・スプリングスティーン、エッタ・ジェームズ、ウォレン・ヘインズなどの大物
シンガーの参加も予定されています。(チケットただ今発売中!http://www.nojazzfest.com/)
*フェスティバル、イベント再開ニュース!
上記のジャズ・ヘリテッジ・フェスティバルの他にも、ニューオリンズではフェ
スティバルやイベントの開催が戻りつつあります。ニューオリンズおよび、ルイジ
アナ州のイベント情報はwww.LouisianaTravel.com/events/にて、チェックするこ
とができるので、是非ご利用ください。また、ニューオリンズのフェスティバル情
報は、www.neworleansonline.com/neworleans/festivals/index.html にてご確認
ください。
*アリーナ再開
187日間の閉鎖を経て去る3月4日にオペラ「ニューオリンズの夜(A Night for
New Orleans)が開催され、アリーナ再開を待ちわびたニューオリンズの市民とオ
ペラファンとで多いに湧きました。その他、NBAのホームゲームなどが続々と開催
され、以前の賑わいが戻ってきています。新スコアボードの設置や内装などで、改
修と復旧工事に要した金額は数十億円規模となったということです。
*コンベンション・アップデート
コンベンション都市、ニューオリンズとしても続々とコンベンションが戻りつつ
有ります。2007年3月24〜27日にかけて、心臓病学会の一大コンベンション開催が
決定しました。心臓病医や医療関係者、医療器具関係各社など興味のある団体には
、ホテルやランドの手配などのアシスタントも提供しています。このほか、2006年
度開催予定のコンベンションは50%、2007年度開催予定のコンベンションは70%、
2008年度では93%がニューオリンズでの開催決定しています。コンベンションに参
加する団体で、4〜16名程であれば、ホテルが満室のときにはニューオリンズ近
郊のBed&Breakfast Innがおすすめ。
空き室情報などルイジアナ州ベッド&ブレックファスト協会へ、お問い合わせく
ださい。www.LouisianaBandB.com/ E-mail: LBBA@ltpa.org/
Tel:US1-225-346-1857/Fax:US1-225-336-4154
〜〜Letter from Japan Louis Armstrong Association 〜〜
ハリケーンカトリーナの被害に際し、日本ルイ・アームストロング協会が昨年、
ニューオリンズ支援コンサートを開催した旨を当ニュースレターでもご紹介しまし
たが、そのコンサートを支えてくださった皆さんに御礼および報告メールが届いて
います。下記をご参照ください。
ルイジアナ州観光局様
10月18日に緊急ニューオリンズ支援コンサートを開催、100人をこえるバ
ンド、3500人の出席者が集まり、一日で180万円を越す支援金が集まってか
ら約半年が経過しましたが、日本ルイ・アームストロング協会には今も全国のジャ
ズファンの皆様から寄付金が寄せられております。
4月19日現在で、その総額は765万円を超えました。
ニューオリンズのミュージシャンを支援しよう、と言う私たちのニューオリンズ
基金の趣旨にのっとり、私たちは次の団体に寄附を行いました。
プリザベーション・ホール New Orleans Musicians Hurricane Relief Fund
22,660ドル
(ニューオリンズの伝統的ジャズを演奏する世界的に有名なホールの、ミュージ
シャン支援基金。)
リンカーセンター Higher Ground Hurricane Relief Fund 10,000ドル
(リンカーン・センターのCEOデレック・ゴードン氏が代表を務め、ウィント
ン・マルサリスが音楽監督を務めるハリケーン被災ミュージシャン支援の基金。)
Jazz Foundation of America Help New Orleans Musicians Now に10,000ドル
(ジャズ・ファウンデーション・オブ・アメリカは、ハリケーンで楽器を失った
ミュージシャンに楽器を贈る活動を続けている)
現在でも、湘南ジャズフェスティバル他、いくつもの団体がニューオリンズ支援
のコンサートを開催、支援金をニューオリンズのミュージシャンに、と私たちの元
にお送り下さっています。
ジャズを愛するアマチュア、プロ、皆さんの暖かい心に毎日感激をしております。
アメリカが日本にプレゼントしてくれた素晴らしい音楽、ジャズ、、、、その故
郷を思い、ニューオリンズを支援することで、サンクスアメリカ、サンクス・アメ
リカン・ジャズの気持ちを表したい、、と言う日本全国のジャズファンの気持ち、
そして日本ルイ・アームストロング協会のニューオリンズ支援の活動を、是非、日
米友好の草の根運動として、キーファー米大使始め日米関係の主要メンバーの方々
にもお伝えいただければ幸いです。
日本ルイ・アームストロング協会 会長 外山喜雄
早稲田学報に掲載の外山喜雄さん(6期、tp)記事紹介 2006.2.1
by 山口義憲
ニューオリンズを救え!!
ジャズの王様、サッチモことルイ・アームストロングを讃え毎年彼の故郷ニューオリンズで開催されているジャズ祭、“サッチモ・サマーフェスト”。このジャズ祭への私たちの出演をかねて、日本のジャズファンとニューオリンズをツアーで訪れたのは8月の初めでした。あの感激からまだ1ヶ月もたたない8月末、「ジャズの故郷」、そして「ジャズの聖地」として、日本の、そして世界のジャズファンに親しまれてきたニューオリンズは、大型ハリケーンの直撃で全滅し、ゴーストタウンと化してしまいました。
ニューオリンズは、私たち夫婦にとって忘れることのできない街です。早稲田大学在学中ニューオルリンズ・ジャズ・クラブ(通称ニューオリ)で二人は知り合い、卒業後結婚、就職後もジャズへの情熱を抑えきれず移民船ブラジル丸に乗り渡米、憧れのジャズの都に移り住んだのが1968年。サッチモと同世代の伝説のジャズマンたちにジャズを学び、ジャズ葬式やパレード、教会の礼拝といった黒人社会の文化の中に溶け込んで、ジャズのルーツを吸収させてもらった忘れ得ぬ5年間のジャズ武者修行でした。日本からの“ジャズ学生”を温かく迎え入れてくれたジャズの故郷へ恩返しがしたいと思い、1994年私たちはサッチモ・ファンの団体、日本ルイ・アームストロング協会を発足させ、銃と麻薬に囲まれて暮らすニューオリンズの子どもたちに、“銃に代えて楽器を”の合ことばのもと、楽器を贈る運動を続けてきました。この度この運動が外務大臣表彰をいただき、8月4日にニューオリンズ総領事館で盛大なパーティーも執り行っていただいた3週間後のハリケーン襲来。私たちの愛する街ニューオリンズの惨状はまさに悪夢以外の何ものでもありません。
何とか被災したニューオリンズのジャズ・ミュージシャンたちを助けたい、そしてジャズの街にジャズのビートを再び響かせる手助けをしたい・・・・・。
日本ルイ・アームストロング協会は、毎年7月に恵比寿のサッポロビール恵比寿麦酒記念館で“サッチモ祭”というデキシーのジャズ祭を開催しています。出演するのは私の楽団・外山喜雄とデキシー・セインツほか、サッチモとニューオリンズに目がないプロ、アマのミュージシャンたち。この仲間たちに呼びかけて、支援のチャリティーコンサートを開催しようと考えたのはハリケーン直後の9月第1週のこと。嬉しいことに14バンド、100名を超えるプロ、アマのミュージシャンたちがこれに応えてくれたのです。早大OBでサッポロ・ホールディングス(株)相談役の岩間辰志氏にご相談し、10月10日(体育の日)に、サッポロビールと共催でモ緊急サッチモ祭“開催が決定したのは9月半ば。早稲田の“ニューオリ”の現役たちも、クラブを挙げて70名もの部員が出演ならびにスタッフとして参加、出演14バンドのメンバーにもニューオリのOBも多数含まれ、私たち日本ルイ・アームストロング協会の理事も5名中4名が早大OB、と思いがけない早稲田パワーのイベントとなりました。
1時から6時半のコンサートは、最初から最後まで超満員。出演バンドの気迫のこもった音、お客様の大歓声と拍手、スタッフ、学生諸君、ボランティアの方々、そして報道の方々までが会場の興奮とともに盛り上がり、ニューオリンズにハートを届けようという意気込みが会場全体に渦巻いているようでした。来場者数3,500人。ニューオリンズのために180万円を1日で集めることができました。
サッチモも天国でニューオリンズ復興のために立ち上がっているだろう・・・・そんな思いから、会場ではサッチモの「ワット・ア・ワンダフル・ワールド」を全員で合唱。若い方から熟年、老年まで、ひとつになった大きなハートが歌声にのってニューオリンズまで届いたと思います!!
この緊急サッチモ祭は新聞各紙に取り上げられ、フジテレビ、NHKでも特集報道されました。楽器をなくしたジャズマンに、と楽器のご寄付も多数寄せられ、協会の募金口座にも、ジャズの故郷を案ずる全国のジャズファンから200万円を超える寄付金が寄せられています。集まった計約400万円を超す寄付金は、楽器をなくしたミュージシャンや学校など、音楽関係の援助金として大切に使わせていただきたいと思っています。
今後、“ジャズの街”の復興には長い時間がかかるかと思います。アメリカが日本と世界にプレゼントしてくれた、ジャズという素晴らしい音楽、世界を明るくしたアメリカ文化への“サンクス・アメリカ”の気持ちを込め、ジャズの故郷の危機を少しでも助けるため、今後もこうしたジャズ・エイドの活動を続けていきたいと思っています。
稲門同窓の皆様、ジャズファンの皆様、ぜひご協力、ご支援、ご助言をお願いいたします。
外山恵子(1965年文) 外山喜雄(1966年政経)
在学中はニューオルリンズ・ジャズ・クラブで、喜雄氏はトランペット、恵子夫人はピアノ・バンジョー奏者。卒業後結婚。66年夫婦でブラジル移民船に乗り込みニューオリンズへ。以後、通算5年に渡り、ジャズの故郷でジャズを学び、ヨーロッパ、アメリカ各地を演奏旅行。現在は、「外山喜雄とデキシー・セインツ」(75年結成)のライブ、コンサート活動、随筆、ジャズ評論などの執筆活動も。喜雄氏は日本ルイ・アームストロング協会会長でニューオリンズ市名誉市民。著書に『ニューオリンズ行進曲』外山喜雄、恵子共著(冬青社)、『聖者が街にやってくる』(冬樹社)など。
<早稲田学報 2006 Feb.より転載>
(注)原文は縦組み。漢数字の西暦年号などはアラビア数字に変更。外山夫妻のツーショットをはじめ写真6点は割愛させていただきました。
ニューオリンズの表彰式 2005.08.04 by 外山喜雄 6期
もうすぐニューオリンズの、サッチモサマーフェスト出演のため、出発です。
8月4日に、ニューオリンズで楽器贈呈、その後総領事公邸で表彰式となり、テ
レビの取材も入ることが決まりました。
日本では5日午前11時半のフジテレビ、お昼のニュースで、放送されることが
決まりした。(ニューオリンズの表彰式の、数時間遅れのリアルタイムの放送です。)
何と、元コロンビアレコードの大プロデューサー、ジョージ・アバキアン氏も出
席して下さいます。
NYのサッチモハウス博物館館長マイケル。コグスウェル氏、サッチモの家の隣
人のお婆さん、セルマ・ヘラルドさん、元ダウンビート誌編集長ダン・モーガンス
ターンさん等も、サッチモ・サマーフェストにセミナー出席のため来ていまして、
ご出席いただける事となりました。
ジャムセッションもあります!!
また、旅から帰りましたら、ご報告いたします。 感謝を込めて、、、
外山喜雄 恵子
下記、ご参照下さい。
外山
Thank you fore the great news about Yoshio’s award. (Yoshio,
congratulations!)
David Ostwald and I will be in New Orleans on August 4, so we hope to be
present at the ceremony honoring Yoshio.
Regards,
George Avakian
Thought you might enjoy this article which was published last week:
FIFTY YEARS LATER,
GEORGE AVAKIAN
REMEMBERS MILES DAVIS
By John McDonough
July 7, 2005 Wall Street Journal
If George Avakian were to nominate his most important achievements as a
record producer, he would have much to choose from. His contributions to
Columbia Records' jazz catalog have been well chronicled. In the 1950s,
he helped restore Louis Armstrong and Duke Ellington to stardom and make
new stars of Erroll Garner and Dave Brubeck.
But of all the gifts Mr. Avakian brought to Columbia, the gift that
keeps on giving most is Miles Davis. The stoic trumpet legend, who died in 1991
at age 65, remains among the label's most valuable assets. Of the 26 Grammy
Awards Davis and his records have collected since 1960, 18 have come
after his death. Nine of those have gone to the continuing series of deluxe
boxed sets that since 1996 have been cataloging his body of work.
It was in 1955 that Mr. Avakian quietly signed Davis and proceeded to
produce the early masterpieces on which his reputation as an innovator
would rest. By way of observing the 50th anniversary of his relatively unsung
arrival, Columbia/Legacy has been rolling out a rapid procession of
Davis reissues, starting in January with three, including a new CD-DVD coupling
of "Kind of Blue," the 1959 album widely considered to be his finest single
work. In March came single CDs of last year's seven-CD box, "Seven Steps,"
covering the transitional 1963-64 period (and issued in April as a 10-LP
set from Mosaic Records. Last month saw a repackaging of Davis's first
Columbia album, "'Round About Midnight" (1957), expanded to two CDs with a
previously unissued 1956 quintet concert with John Coltrane. And in September
expect another boxed set, "The Cellar Door Sessions," from three nights in 1970.
The object of this celebration earned his iconic stature in many ways.
But the Miles Davis that arrived at Columbia in 1955 was still very much a
work in progress. "People think he came to Columbia with big ideas about
recording Third Stream orchestra works with Gil Evans," says Mr. Avakian.
"Miles didn't have an idea in his head when he came to Columbia except
that he was ambitious and wanted the kind of exposure and promotion Garner
and Brubeck were getting.
"Soon after we set up a pop album department at Columbia in 1947, Miles
started this little campaign. Whenever I'd run into him, he'd say, 'Hey
George, when are you going to sign me up?'...He would say it in a charming,
winking kind of way. But I always knew that he meant it."
There were two problems. Davis was under contract to Prestige Records. And
he was a junkie. "I didn't want any part of junkies," Mr. Avakian recalls,
"because I'd been around them enough to know that they're nothing but
trouble. It was terrible to see it in Miles. Around 1952 he was hardly
working and would come and sit in at Birdland on Mondays when they had an
open-door policy. He looked slovenly and his playing had deteriorated. It
was a sad thing. During this time when he would say 'sign me up,' I could
always say no because of the Prestige contract."
But by 1954 Davis had straightened himself out. When Mr. Avakian saw himat
the Newport Jazz Festival in 1955, he decided the time had come for a
serious talk. "Those who had heard of Miles at all then mostly thought of
him as a bebop player," Mr. Avakian says. "But I saw Miles in a different
way. I saw him as the best trumpet ballad player since Louis Armstrong....It
could be jazz ballads like 'Round Midnight,' but I thought it could have a
broad appeal on the basis of being very pretty music -- easy to listen to on
one level -- yet of a very high quality for jazz fans. That was the
principle potential I had in mind in signing Miles."
Jazz by then had grown across the decades mainly through leaps in virtuosity
that expanded the limits of the music. But with bebop, the music reached the
practical limits of where virtuosity could carry it. The great contribution
of Miles Davis was to slow the arms race of technique and show that there
were paths to innovation that didn't necessarily depend on hitting more
notes higher and faster. The languorous intimacy of his ballads helped open
that door. The remarkable thing is how close Columbia came to missing the
potential that Davis offered.
"Within Columbia there was absolutely no interest in Miles," Mr. Avakian
recalls. "He wasn't a factor in the business we were doing, which was
getting to be huge. Fortunately, there was no need for me to ask anyone's
permission to sign him."
Mr. Avakian offered Davis a two-year contract with options and a $2,000
advance for each of two albums against a royalty of 4%, which was only a
point below what Doris Day was receiving. As for the 18 remaining months of
his Prestige contract, Davis himself suggested a simple solution.
Mr. Avakian spoke to Bob Weinstock of Prestige and told him that he'd like
to start recording Miles right away, but that Columbia would not release
anything until his Prestige contract expired. Weinstock agreed,recognizing,
Mr. Avakian says, that the promotion Columbia would be investing in Miles 18
months hence would greatly enhance the value of any Miles Davis LPs Prestige
would release before then.
Davis knew he would now have to form a working group and hold it together
until his first Columbia album came out in 1957. "By the end of the summer
Miles had come up with John Coltrane and asked me to come down to the
Anchors Inn in Baltimore and listen. I remember well that Coltrane just
knocked me out with the last set. That was the thing I needed to push me
over the line. Miles made his first recordings with Coltrane in October and
we signed the contract at the same session."
Eighteen months later, Davis debuted as a Columbia artist on "'Round About
Midnight." The album contained the first recordings made by the now
legendary Davis-Coltrane Quintet. But with the 18-month lag, Prestige had in
the meantime recorded and issued several albums by the same group.
With the quintet overexposed, says Mr. Avakian, "I knew I would have to do
something different with Miles....In 1956 I had recorded Gunther Schiller
conducting two pieces for brass ensemble in which Miles was soloist. It was
strictly for art and didn't sell well. But when I heard Miles in that
context, I decided we should explore something further along that line for
his next album. Miles was free to choose whom he wanted to work with to get
that result, and he chose Gil Evans. The three of us had lunch for two days
in a row working out the plan, and the idea emerged that they would do an
album with as many pieces as they wanted with background conceptions that
Gil could provide. I asked for only one thing: provide an original piece
that could support the album concept I had in mind, 'Miles Ahead.'"
The success of that LP brought Davis the fame he had wanted and solidified
his place in the Columbia roster. Mr. Avakian would produce one other Davis
album, "Milestones," and help lay the groundwork for "Porgy & Bess" and
"Sketches of Spain" before leaving the company in 1958. Together their
timing could not have been better. Davis appeared on Columbia the same year
Jack Kerouac published "On the Road." A new breed of postwar individualism
was stirring in the beat movement, which embraced modern jazz as its music.
Davis was a perfect expression of its cool detachment.
"Miles was a natural rebel," Mr. Avakian says, "very original, and therefore
perceived as authentic. The beats may have admired his coolness, but I don't
think they would have liked him. He enjoyed the privileges of material
well-being too much. While he may have appeared anti-Establishment, Miles
was a man who very much wanted the protection of the Establishment."
It was a protection Columbia would provide him for the next 30 years.
Mr. McDonough writes about jazz for the Journal.
外務大臣表彰内定のお知らせ 2005.07.05 by 外山喜雄 6期
皆様
御世話になっております。
大変嬉しいニュースが、二つです。
先日の日本ルイ・アームストロング協会例会、少年サッチモの聴いたジャズ、
ご参加者の中に、みなみらんぼうさんがいらっしゃいましたが、大変コンサー
トを楽しんでいただいたようで、今日7月2日の日本経済新聞夕刊、『みなみ
らんぼうのスローライフ』
のコラムで、大変好意的に取り上げていただきました。
ここに、記事を添付ご送付し、ご報告します。
皆様のご協力、大変有り難うございました!!!!
また、日本ルイ・アームストロング協会の活動のシンボルとしてつづけて来ま
した、ニューオリンズ、サッチモの孫達へ楽器を、、の運動が、本年度の外務
大臣表彰を受けることとなった、とのお知らせを、在ニューオリンズ日本総領
事館からいただきました!!!
日本ルイ・アームストロング協会会員、スタッフの皆様、楽器をご寄付下さっ
た皆様、そして楽器の輸送を担当して下さっている日本通運、また日本通運に
ご紹介いただいた森忠彦様、楽器の提供、また、楽器修理でご協力いただいて
いる(株)グローバル様、その他多くの皆様のご協力に心より感謝いたします。
日本ルイ・アームストロング協会のこの活動が、このようなかたちで表彰を受
け、皆様のご恩にも多少なりお返しができると、大変喜んでおります。
有り難うございました。
下記、在ニューオリンズ日本総領事館よりのメールをご参照下さい。
外山喜雄、恵子
Subject: 外務大臣表彰内定のお知らせ
外山 様
大変お世話になっております。
この度、東京の外務本省より、これまでの外山様の功績に鑑み、本年度の外
務大臣表彰受賞者として内定した旨連絡が接到致しました。
当館管轄内のニューオリンズを中心に日本と米国の友好親善に貢献され、ま
た、貧しい人々に希望を与えてこられた外山様が受賞者として内定したことは、当館とし
ても大変喜ばしいことでございます。
表彰状への標記は、 「外山 喜雄 日本ルイ・アームストロング協会会長」となります。
宜しくお願い致します。
在ニューオリンズ総領事館
井上 賢司
夫婦でデキシー 30年 2005.04.29 by 山口編集長 9期
“ジャズ夫婦 外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールド”
・・・ルイ・アームストロングとたどるジャズの歴史
シリーズコンサート 全5回予定
シリーズ・コンサート趣旨
1968年から1973年、外山喜雄・恵子はサッチモに魅せられ渡米、5年間ジャズとサッチモの故郷ニューオリンズでジャズ武者修行をしました。二人がニューオリンズから帰国後、自己のグループ、外山喜雄とデキシーセインツを結成、プロとしてスタートしたのが1975年。今年ジャズ夫婦は、夫婦でデキシー30年を迎えます。
30周年を記念して今回スタートする、このシリーズ・コンサート“ジャズ夫婦 外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールド”では、外山喜雄・恵子を案内人に、二人が武者修行中に出会ったサッチモの妹や伝説のジャズマン、フレディー・ケパードの兄、ジャズの故郷のジャズ葬式など貴重な記録を、写真、録音、16mm映画の映像を駆使し、サッチモの一生とジャズの歴史を演奏で再現、解説します。また、ニューヨークのサッチモハウス博物館、ニューオリンズのチュレーン大学ジャズ資料室所蔵の編曲を使い、ジャズ黄金時代の貴重なサウンドも再現する、日本初のスペシャル企画となります。主催は日本ルイ・アームストロング協会。
ジャズ評論家、瀬川昌久氏(日本のジャズ、ならびにルイ・アームストロング等クラシックジャズ、スイング・ジャズ、ビッグバンドジャズ研究の第一人者)が全体の監修と解説を担当。
外山喜雄・恵子、ジャズ夫婦30年を記念し、『日本ルイ・アームストロング協会』は、サッチモの音楽が全世界へと拡がって行く様子を、“サッチモの旅―ルイ・アームストロング年表(外山喜雄編)”と言う小冊子に纏めました。シリーズコンサートでは、この“サッチモの旅―ルイ・アームストロング年表”をテキストに使い、サッチモの歩みとともにジャズの歴史を探索します。
“ジャズ夫婦 外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールド”
主催:日本ルイ・アームストロング協会
後援:スイングジャーナル
協賛:明治乳業(予定)
早稲田大学ニューオルリンズ・ジャズクラブ稲門会
協力:ノラ・ミュージック
シリーズコンサート全5回予定
監修・解説:ジャズ評論家 瀬川昌久 案内役: 外山喜雄・恵子
出演:外山喜雄・恵子とデキシー・セインツ 外山喜雄(TP,VO)鈴木孝二(CL)
粉川忠範(TB)藤崎羊一(B)外山恵子(P)マイク・レズニコフ
特別ゲスト ジミー・スミス(DRMS)
他ジャズ界を代表するプレイヤーを予定
シリーズ第一回
特集 “少年サッチモが聴いたジャズ” 1901年〜1923年
ラグタイム全盛とニューオリンズのトランペット・キング達
6月15日(水)アテネフランセ文化センター (4fホール)
監修:ジャズ評論家 瀬川昌久 案内役: 外山喜雄・恵子 構成:外山喜雄
出演:外山喜雄・恵子とデキシー・セインツ 外山喜雄(TP,VO)鈴木孝二(CL)粉川忠範(TB)
藤崎羊一(B)外山恵子(P)マイク・レズニコフ、ジミー・スミス(DRMS)
関泰子(バイオリン)他 特別ゲストも出演 ニューオリンズの16mmフィルム映像上映
1968年から1973年の5年間、ジャズ夫婦が体験したニューオリンズでのジャズ武者修行。それは、サッチモの妹やジャズ史の世界的研究家との出会い、伝説のジャズマン達、そしてジャズ葬式などジャズの故郷の独特の風習に直に触れる旅でもあった。
ラグタイム、バディー・ボールデン、バンク・ジョンソン、フレディー・ケパード、キング・オリバー、キッド・オリー・・・・。サッチモが生まれた1901年からシカゴのキング・オリバー楽団に加入する1923年までの足跡とジャズ黎明期の音楽を演奏と映像を用い夫妻の体験談とともに再現、エンターテイニングなジャズ講座を楽しむ。
シリーズ第二回
特集 “サッチモの黄金時代 -1 シカゴ騒然”1923年〜1928年
キング・オリバー楽団の第2コルネット奏者として始めてシカゴに現れた天才サッチモ。
その斬新なジャズ感覚が世界に与えた衝撃
10月12日(水)アテネフランセ文化センター (4fホール)
早稲田大学ニューオリンズ・ジャズ・クラブで出会った二人は、若き日のルイ・アームストロングの名演で知られるホット5,ホット7などの演奏を研究、当時の人気番組だった大学対抗バンド合戦で、ホット5の名演を再現、優勝を果たしました。
この回は若き日のサッチモにスポットを当て、1922年キング・オリバーに呼ばれ彼の楽団に加入、北部のジャズのメッカ、シカゴに活躍の場を移したサッチモ、また、後年のジャズに大きな影響を与えジャズ発展のレールを敷いたシカゴ時代のホット5,ホット7他画期的な演奏を再現。題して、サッチモの出現に“シカゴ騒然”。
シリーズ第三回
特集 “サッチモの黄金時代 -2 ニューヨーク・デビュー” 1929年〜1934
ニューヨークに進出したサッチモ。天才トランぺッター、ジャズマン、そして史上初のジャズボーカリストとして世界の音楽に影響を与える。
日時未定 2006年1月頃 アテネフランセ文化センター (4fホール)
少人数編成のデキシーランド・ジャズ的なコンボから、スモール・フルバンドとも言える編成の楽団でアメリカの表舞台、ニューヨーク・デビューを果たしたサッチモ。
積極的に当時の流行歌を取り上げ、ジャズ・トランペットのスタイルのみならず、ジャズ・ボーカルの分野でも、アメリカそして世界のポピュラー・ソングに信じられないほどの影響を与えた。その名演から、後のスイング・ジャズ全盛時代への息吹を探る。
日本のデキシーランドジャズの第一人者だった南里文雄も、このころのサッチモに大きな影響を受けた日本ジャズ界のパイオニア。南里文雄は夫妻がジャズ武者修行から帰り開催した帰国記念コンサートにゲスト出演、夫妻にはなむけの言葉を寄せた。
“外山君、リサイタルお目出度う。君はなんて幸せな人だろう、好きな音楽を、女房と一緒にやれるなんて。君の一途にデキシーランドジャズに向かう気持ちは、僕にはよくわかる。それは、本当の心からにじみ出るジャズだからだ。ご成功を祝る。南里文雄、、、と。
この回では、南里さん等が演奏した、日本のジャズ黎明期へのサッチモの影響も考察する。
シリーズ第四回
特集 “スイング・ザット・ミュージック” 1935年〜1945年
サッチモハウス所蔵のスイング時代のサッチモビッグバンドの譜面を取り寄せ再現する世界でも珍しい試み。
シリーズの総集編的コンサートでもある
日時未定 ヤマハホール等
サッチモは、1941年から亡くなる71年までニューヨーク、クイーンズ区コロナにある自宅で愛妻のルシール夫人と暮した。このサッチモの家、サッチモハウスを博物館として保存しようと言う運動が起こったのを知り、外山喜雄、恵子夫妻は1996年、日本ルイ・アームストロング協会の会員に寄付を呼びかけた。1ヶ月の間に会員から100万円もの寄付が寄せられ、夫妻は同年ハウスを訪れこれを贈呈した。サッチモハウスは全世界からの協力で、2003年10月正式に博物館としてオープン、夫妻は記念式典に参加、世界的音楽家達と演奏をともにした。サッチモの家には、スイング全盛時代ビッグバンドを率いた当時のサッチモ楽団の貴重なオーケストレーションが眠っていた。ニューヨーク、サッチモハウス博物館に眠る、貴重なビッグバンド時代のアレンジを再現、特集する画期的な企画。1936年サッチモは初の自著伝、「スイング・ザット・ミュージック」を出版、この回のタイトルはサッチモの著作から引用。
シリーズ第五回
特集 ニューオリンズ・リバイバル 1946年〜1971年
日時未定 アテネフランセ文化センター 4fホール
1940年代に始まったニューオリンズへの回帰、ニューオリンズ・リバイバルの運動から、ビッグバンド時代は終焉を迎え、サッチモも再びスモール・コンボを率いジャズ界に大々的にカムバックした。
1959年制作、60年日本公開された名画“五つの銅貨”は、この古いジャズへのルネッサンス運動とも深い関係があるといえる。この映画に出演したサッチモが演奏した「聖者の行進」は、世界中知らぬ人のないジャズの代表曲となった。
外山喜雄、恵子ジャズ夫婦はこの映画から大きな影響を受け、この映画を地で行く活動を続けてきた。リバイバル運動で注目を浴びたバンク・ジョンソン、キッド・オリー等のカムバック、そしてデキシー編成に戻りヒット作を飛ばし続けたサッチモ・オールスターズの演奏を特集。
また、1971年サッチモがニューヨークで他界したとき、外山喜雄、恵子は武者修行中のニューオリンズでこの悲しいニュースを知った。
サッチモが生まれたスラムの黒人街から自発的に始まった、ジャズの王様を悼む記念のジャズ葬式に参加した夫妻の思い出とともに、“ジャズ夫婦 外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールドの旅”シリーズを終わる。
外山喜雄・恵子 経歴
外山喜雄・恵子は早稲田大学在学中、ジャズ研究サークル早稲田大学ニューオルリンズ・ジャズ・クラブで知り合う。ジャズ映画“五つの銅貨”でデキシーランド・ジャズとサッチモに憧れ、1964年来日したサッチモを楽屋に訪ね、そのトランペットを吹かせてもらったことからサッチモの虜となる。卒業後結婚、デキシーランド・ジャズとサッチモへの情熱から会社を退職し、移民船ブラジル丸に乗り1968年ニューオリンズに移住。1973年までの5年間ジャズ武者修行、サッチモと同世代の伝説的ジャズマンたちに本場のジャズを教わる。帰国後、1975年に外山喜雄とデキシー・セインツを結成、日本でプロとしてスタートした。外山喜雄は“日本のサッチモ”として、アメリカのマスメディアで注目されている。毎年8月、ニューオリンズで開催されているルイ・アームストロングを称えるジャズ祭「サッチモ・サマーフェスト」に2003年以来毎年招待を受ける名誉に浴し出演している。また、ジャズ夫婦は東京ディズニーランドのニューオリンズ広場にレギュラー出演、ライブ、コンサート活動でも活躍している。1994年以来、日本のサッチモファンの団体、『日本ルイ・アームストロング協会』の代表を務め、35回を越える例会コンサートを開催、平成13年度文化庁芸術祭にも参加した。
また、夫妻はお世話になったアメリカのジャズとサッチモとサッチモの故郷への恩返しにと、銃と麻薬に囲まれて暮らすニューオリンズの子供達、“サッチモの孫たち”に“銃に代えて楽器を”の合い言葉のもと、楽器を贈る活動に取り組んでいる。会の発足以来10年間に500点を越える楽器が海を渡っている。
シリーズ・エクストラ
この5回シリーズに加え、日本ルイ・アームストロング協会では、将来次のようなテーマ・コンサートの展開にも取り組みたいと思っています。
●サッチモとデューク・エリントン
●サッチモとファッツ・ワーラー
●サッチモとディズニー(ディズニーランド開園50周年―2005年7月を記念して)
●デキシーランドジャズの名リーダー、エディー・コンドン生誕100年に因んで、
エディー・コンドンとシカゴ・ジャズ特集
●日本デキシーランド・ジャンボリー 日本のデキシーランド・ジャズ大会
●ホット・ジャズ対クール・ジャズ (デキシーランドジャズvsモダンジャズ)
10周年 日本ルイ・アームストロング協会 皆様のご協力感謝!!! 2004.05.26 掲載
外山さん主催の日本ルイ・アームストロング協会が今年10周年を迎えます。
10年の活動がVIDEOになりました。
短い編集ですが、ジ〜ンと来てしまいます。
皆様に感謝
日本ルイ・アームストロング協会34例会
外山喜雄&DIXIE SAINTS NEWS 2004 6月
24回サッチモ祭
NY時事通信より配信の、元コロンビアレコード大プロデューサー
ジョージ・アバキアン氏インタビュー 2004.2.8 掲載
皆様
NYサッチモハウス、オープンで御世話になった、時事通信の鈴木さんから、ジョ
ージ・アバキアン氏のインタビュー記事が配信されてきました。
ジョージさんには、2003年夏、ニューオリンズで開催された、サッチモサマー
フェストで始めてお会いし、10月、NYのサッチモハウス博物館開館で、再会、
オープン記念の式典や、バードランドでの記念ライブ出演をアレンジして下さり、
大変御世話になりました。
自分では、知らない内に、ある人に大変御世話になっていた、、、、こんな事が時
々あるものですが、、、元、コロンビアレコードの大プロデューサー、ジョージ・
アバキアンさんも、そんな人の一人です。
私たちがバイブルのように親しみ、学んできたジャズの名盤の数々、、、その多く
が、ジョージさんの作品だったのです。
氏のプロデュースした、ジャズの名盤をリストアップしましょう!!
コロンビアのジャズの歴史!! ジャズ・クラシック・シリーズ、サッチモ、ホッ
ト・ファイブ、セブン等
同企画のベッシー・スミス、 ビックス・バイダーベック
サッチモ・プレイズ・ファッツ、WCハンディー、サッチモ大使の旅、、、、。
そのほかにも、トラディショナルジャズのみならず、マイルスのラウンド・ミッド
ナイト、ニューポートのエリントン、ソニー・ロリンズ、、、、とジャズ全般のプ
ロデュース作品があります。
日本のジャズ評論家の先駆的な方々、野口久光さんや油井正一さん、、、また、そ
のまた、先輩に当たる方々も、アバキアン氏に影響を受けたと聞きます。何しろ、
クラシックジャズを、アルバムとして(最初はSP盤のアルバムだったそうです、
、、)発行したのは、氏が始めて、、、。1940年代初頭のことだったと言いま
すから、いわば、日本の草分けジャズファンだった野口先生、油井先生、いやもっ
と前の野川香文さん、村岡ていさん、、、昔過ぎて私もわかりません、、、、。
私たちは、野口先生の代の方々に大きな影響を受けました。その野口先生や、油井
先生に影響を与えたジョージさんは、いわば私たちの“ジャズおじいさん”に当た
ります。
私たちが大きな影響を受けた、ジャズ映画、真夏の夜のジャズ”の音楽監督もジョ
ージさん、また、私の大好きなCBSのドキュメンタリー映画、”サッチモは世界
を廻る”も、その実現にジョージさんの、大きな力がありました。そして、あの映
画のフィルム編集は、ジョージさんのお兄さん、アラム・アバキアンさんなのです
!!!
いわば私たちにとって、2003年のジョージさんとの出会いには、存在すら知ら
なかったおじいさんが、突然現れた様な感慨がありました。
時事通信ニューヨー総局長の鈴木美勝さんの、素敵なインタビュー記事、お送りし
ます。
鈴木さんは、私たちが、サッチモハウスオープン記念セッションとしてNYのジャ
ズクラブ、バードランドに出演した際、そのプロモーションのためジョージさんが
アプローチした、ニューヨーク日本人ネットワークの一人、時事通信のニューヨー
ク総支局長!!!
彼も、すっかり、ジョージさんのファンになってしまいました。
でもジョージも、さすがはもとコロンビアのほとんど社長心得見たいな人だけあっ
て、スゴイ体力と情熱でしたです。
ああ、社長心得の時に、気に入られたかった!!!! 後悔、、、
添付のインタビュー記事をお楽しみ下さい。
以下鈴木さんより:
外山様
こちらで10年も20年も暮らしている日本人の方でも、この冬は格別の寒さだといっ
ております。ご心配頂き、誠にありがとうございます。
アバキアンさんの原稿については、小生の署名と【時事】のクレジットさえ付記し
て頂ければ、ご遠慮なくお使い下さい。
アバキアンさんと話していると(じっくり話をきいたのは2度ほどですが)、「ヨ
シ」の名前が少なくとも4〜5回は出てきます。
外山さんに寄せる信頼は並大抵じゃないと感じ入っております。
奥様ともども、今年もご活躍されることを期待しております。
時事NY総局長 鈴木美勝
2004/01/20-09:19
【ニューヨーク・リポート】NY総局長 鈴木美勝
「自由の地」アメリカの正念場=ジャズ界の大プロデューサーとの語らい
著名なジャズ・プロデューサー、ジョージ・アバキアン氏は、今から73年前、アルメニア人の両親と共にニューヨークにやってきた移民の一人。迫害を逃れ、たどり着いたアメリカで、自由と魂・解放の“叫び”と言われるジャズと出会った。サッチモことルイ・アームストロングをはじめ、デューク・エリントンら才能豊かなジャズ・ミュージシャンのレコードをプロデュースしジャズ界に大きな貢献を果たしてきたアバキアン氏。彼は今、建国以来、大量の移民を受け入れてきた自由の地アメリカの「変化」を憂慮している。
◇黒人の魂・解放とアルメニア移民
ジョージ・アバキアン氏はロシア(北カフカス)生まれのアルメニア系アメリカ人。旧ソ連南西部のカフカスに浮かぶ「キリスト教徒の孤島」アルメニアは、幾度となく異民族に支配され、分割の悲劇を味わってきた。
両親と共にニューヨーク・エリス島に足を踏み入れたのが11歳の時。そして、程なく、ニューヨークでピアノを習い始めた。
アバキアン氏は振り返る。
「すく下の弟はグルジア、末の弟はニューヨーク、3人の兄弟とも生まれた国が違うんだ。アメリカに来たことは、両親をはじめわれわれ家族にとって随分ラッキーだった」
1937年、エール大学に進学、草創期のジャズ収集家でジャズ・専門誌「ダウン・ビート」コラムニストのマーシャル・スターンズ教授(英文学)に出会い、ジャズのとりことなった。毎週金曜日になると、アパートにはジャズ好きの仲間が集まって来た。
アームストロング、エリントン、ベッシー・スミス。ジョージは仲間と一緒に、実力を兼ね備えたジャズ・ミュージシャンたちのまだ初期のレコードに聞き惚れた。創造力豊かに自由奔放に繰り出される独自のリズム、フレージングから弾ける音色、スイング感、サウンドの響き。この頃のレコード鑑賞が、アバキアン氏の音楽センスを磨き上げ、洗練された技量を育んだ。大学在学中、彼は20歳の若さで1940年までのジャズ小史をレビューし、その“最初の権威”と評価された。そして、後に、コロンビアやワーナー・ブラザーズなどでジャズ・レコードのプロデューサーとなり、多くの実績を残した。
初のジャズ・アルバム、ジャズのリバイバル・アルバムのシリーズ物、ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサート、アームストロングの欧州ツアーなどライブ演奏のレコード化等々−。1950年代から60年代にかけて次々と新機軸を打ち出し、その先駆的な仕事の結果、「レコードの革新者」と呼ばれ、アバキアン氏はコロンビアの黄金時代を象徴する大プロデューサーとなった。
2000年、ジャズ界に多大な貢献をした人々に贈られるダウン・ビート・ライフタイム・アチーブメント賞を受賞、昨秋には、長年にわたって推進してきたルイ・アームストロング記念館「サッチモ・ハウス」をオープンさせた。ハドソン川を一望できるブロンクス区の高級住宅地リバーデールに居を構える同氏は、齢80代半ばになった今も、週一回必ずマンハッタンのジャズ・ライブハウス「バードランド」に足を運ぶ生活を送っている。
1930年、自由の地を求めてニューヨークにやってきたアルメニア人の一家を大らかに受け入れてくれたアメリカ−。自由と解放を求める感情の素朴な音楽表現であるジャズと出会い、数々のジャズ・ミュージシャンをレコード・プロデュースを通じて世に送り出してきたアバキアン氏の半生。それは、億万長者誕生のサクセス・ストーリーではないものの、アルメニア人として生を受けた同氏の“天職”を貫いたある種「アメリカン・ドリーム」の実現と言えるだろう。
◇エゴイストになったアメリカ人
アメリカは、異民族支配や迫害を逃れてきたアルメニア人移民にとって「とても素晴らしい国だった」と強調するアバキアン氏だが、最近のアメリカの「変化」には強い懸念を示す。
「アメリカは、1939年(ナチス・ドイツのポーランド侵攻)そして41年(旧日本軍による真珠湾攻撃)を節目に、世界のことを真剣に考えるようになった。しかし最近のアメリカは大変傲慢な国になった。自由が減り変化は悪い方に向かっている」。特に、米同時多発テロ9・11以後、「とりわけ中西部などに住む多く人たちは、アメリカ以外の世界の存在を何ら意識していない。最近では20年、30年代のような古い孤立主義者が復活し、その結果、非常にエゴイストで、実際は仲間であるにもかかわらず相手を敵とさえ見なすようなアメリカ人が増えている」−と。
アバキアン氏が懸念するこのエゴイズムを伴う固有の孤立主義、そしてブッシュ政権下でのユニラテラリズム(単独行動主義)による過激な介入主義。今、一見矛盾する二つのアメリカニズムが合体し、この国の思潮を創り出している。その流れは、対外的には「アメリカ・デモクラシー」の価値を絶対善として広げようとする方向に機能し、国内的には自由と多様性を衰退させる機能を果たしているように見える。(了)
(C)時事通信社
NYサッチモハウス開館
グラビア特集記事が掲載されています!! 2003.11.28 掲載
♪スイングジャーナル12月号
(スイングジャーナル社)カラーグラビア特集3ページ
♪バンドジャーナル別冊 管楽器パラダイス 2003WINTER号
(音楽之友社)カラーグラビア特集5ページ
10月15日にオープンした、NYサッチモの家、、、サッチモハウス記念館オー
プンと、私達のセレモニーへの出席、共演が、現在発売中の音楽誌に大きく取り上
げられています。
スイングジャーナル12月号は、ジョン・コルトレーン研究家の藤岡靖洋さんの写
真と文による3ページの豪華カラーグラビア特集記事。サッチモハウス邸内の様子
、バードランドの記念セッションの模様も詳しく紹介されています。 1020円
また、管楽器パラダイスは、サッチモのサイン入りのトランペットのクローズアッ
プに始まる、何と5ページの超豪華カラーグラビア特集。写真撮影は素晴らしいプ
ロ写真家、小林洋氏です。当日のセレモニー、出演のトランペッター全員の模様も
手に取るようにわかりますよ!! 950円
是非、全国の書店、レコード店、楽器店でお求め下さい!!!
日本ルイ・アームストロング協会の会報と、SJ12月号、管パラ2003winter
号で、サッチモハウスのオープニングの様子が手に取るようにわかります。
(管楽器パラダイスは2ページ目見開きで、
私たちのディズニーランドの写真も掲載!!!)
サー・チャールス・アット・ホーム 2003.11.24 掲載
ピアニスト、サー・チャールス・トンプソンがトロンボーン奏者ビック・ディケンソンと吹き込んだ名作レコード、ビック・ディケンソン・ショーケース。このレコードの中に、彼のオリジナル、“サー・チャールス・アット・ホーム”と言う曲がある。ユニゾンのリフが、シンプルに繰り返されるブルース。“アット・ホーム”、、、家でくつろぐと言う意味もこもっているのだろう、、いかにもサー・チャールスらしい、中間派ジャズの名演奏のひとつだ。
今年8月27日から9月1日、ロスアンゼルス・スイート・アンド・ホットジャズ祭に出演したデキシーセインツは、今年5月、新浦安ハブで日本ルイ・アームストロング協会主催の再会セッションをした、サー・チャールスさんをロスの自宅に訪ねた。
サー・チャールスさんと奥様のまきこさんは、ハリウッドからもう一つ山を越えたロスの北部、バーバンクの清楚なプール付きアパートに住んでいる。素敵な奥様に恵まれ、毎日すぐ側のゴルフ場に通い、かつてセミプロでならしたゴルフを10ドルで楽しむのが、1918年生まれ、85才の彼の健康の秘訣。サー・チャールスの元気さは驚異的で、奥さんがこうこぼしていた、、、“この間車を運転して、スピード違反で捕まりましてネ、、それがネ、100マイル出てたって言うんですから”、、、、100マイル、、160キロである、、、、。
8月28日、ジャズ祭の開催されているロス空港のマリオットホテルで、8人乗りクライスラーのバンをレンタル、セインツのメンバー、マイク・レズニコフ、粉川忠範、鈴木孝二、藤崎羊一、ジャズファンの新田豊彦さんと渡辺治道さん私たちで、地図を片手にサーチャールス邸探索ドライブに出かける。運転は是非ロスで運転したいという藤崎、粉川が担当。空港の側を通るフリーウェイ405号線に乗って約30分、サンタモニカを過ぎ、ハリウッド、ビバリーヒルズの西側を過ぎもうひと山越えたバーバンク・ブールバードで降りる。降りて1キロ足らず、2,3分のところ、いかにもロスらしい素敵なアパートの前で、サー・チャールスの元気そうな笑顔が私たちを待っていた。
ベッドルーム、リビングルーム、キッチン、バスルームのこじんまりした素敵なアパート、ドアを開けると正面のリビングルームにグランド・ピアノが。私たちを迎え入れると、早速サー・チャールスは、歓迎のピアノを弾き始めた。曲は、スティービー・ワンダーのヒット曲、ユー・アー・ザ・サン・シャイン・オブ・マイ・ライフ。私たちが彼のサンシャイン!!最大の歓迎の言葉だ。それほど、ハブでの日本ルイ・アームストロング協会の歓迎会を喜んで下さっているのだ!!!!
バスルームと寝室には、歓迎会の写真が何枚も飾られていた。
明るいロスの日差しが差し込むベッドルーム。大きな鏡台の前には沢山の写真が飾られ、中には、サー・チャールスが小学生の時の写真も、、。40人ほどの白人のクラスメートの中に一人だけ黒人のサー・チャールス少年、、彼の通った小学校は、彼以外皆白人、、人種差別の厳しかった当時としては、大変珍しいことだったという。
よけいなことだが、寝室にあるベッドは一つだけ、、ダブルベッドがとても印象的だった。
リビングルームのオーディオ・セットからは、イリノイ・ジャケやコールマン・ホーキンスと録音したサー・チャールスのCDや、ハンプトン、ベイシーなどスイングのオムニバス盤のジャズが流れ、そんな中、誰かが録音しプレゼントした新浦安ハブのライブCDもかかっていた。
奥様が手配してくれた、ケータリングの中華が山ほど届き、全員超満腹に。
夜のコンサート出演に間に合わせるため、帰宅時間が迫り、お別れの挨拶をしていると、また、来たときと同じように、サー・チャールスは“ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ”を演奏して、私たちを送ってくれた。
ロスの明るい太陽の下、素敵な奥様に恵まれ、コンサートに、レコーディングに、ゴルフにと、悠々自適の生活を送る“サー・チャールス・アット・ホーム”を訪ねる小旅行は、温かい感激の中、再会を約束して終わりました。
サー・チャールスさん、奥様、お元気で。また、日本で、お会いしましょう!!!
サー・チャールス・トンプソンと中間派ジャズ
中間派ジャズと言う言葉がある。
1950年代、バンガードというレコード・レーベルにそんな名演奏の数々が録音された。
メンバーはピアノのサー・チャールス・トンプソンを中心に、トロンボーン、ビック・ディケンソン、ベース、ウォルター・ペイジ、クラリネット、エドモンド・ホール、ドラム、ジョー・ジョーンズ、トランペット、ルビー・ブラフ、、コールマン・ホーキンス、ジョー・ニューマンが入った盤もある。
メンバーからもわかるように、カウント・ベイシーのメンバーやサッチモ・オールスターズのメンバー、またスイングからモダン畑のジャズメンによる色々な要素を持ったジャズ。
スイングジャズより一寸モダン、でもモダンジャズではない。デキシーっぽい面も有るがビーバップ的で、ホットと言うよりはクールなジャズ、、、、。
一体このジャズを何と呼んだものか、、、。
困ったすえ“中間派ジャズ”と素晴らしい命名をしたのは、司会者として有名になる前、ジャズ評論家として活躍していた大橋巨泉さんだったという。
“中間派ジャズ”のサウンドに最大の影響を与えているのが、ピアニスト、サー・チャールス・トンプソン。何故って、中間派ジャズと呼ばれる全ての録音に、彼のピアノ入っているからだ。“中間派ジャズ”って、サー・チャールスのジャズなんだ、、、。サー・チャールスのピアノソロを聴いていると、そう納得させられてしまう。
こんな逸話がある。ニューヨークのジャズ・ストリート52番街にジャズがあふれていた1950年代はじめ、カウント・ベイシーの奥さんがこの通りを通りかかった。すると、ご主人、ベイシーのピアノが聞こえてくる、、。“家の主人は、今日休みのはずだけど、、、”と中を覗くと、ピアニストはサー・チャールスだった、、、、。
彼に最初にあったのは、今から15年ほど前、彼が六本木のジャズクラブ、アフター・シックスに半年契約で出演していた時だった。伝説のプレイヤー、サー・チャールスが日本に!!!通い詰める内に、すっかり友達になってしまった私達。よく彼を我が家に招待して、たっぷりピアノソロを聴かせてもらった。丁度、彼がステイしていた六本木のマンションの部屋にピアノがなかったこともあって、ピアノ練習がてら来てくれたのである。
彼のピアノを幸運にもとことん聞き込ませてもらったお陰で、サー・チャールス・スタイルの分析にも長けて来た。
丁度私たちの頭の中にも、時々昔の想い出が蘇ってくるように、彼のピアノにも、ある時はベイシーが、ある時はアート・テイタムが、またテディー・ウィルソン、エリントン、アール・ハインズ、ナット・キング・コールまで、、様々なピアニストの想い出が乗り移ってくるのがわかるのである。そんな時、ピアノを弾くサーチャールスの眼は、半ば上目遣いに彼のアイドルの、また友人のピアニスト達の姿を遠くに探すような、夢見る目つきをしている。そして何と言っても、リズム・セクションが優しいスイング感をかもし出しているとき、サー・チャールス独特の単音のフレージングが魔法のように生み出されて、、、、いつの間にか聞く人は、すっかり“中間派ジャズ”ミスター・サー・チャールス・トンプソンの世界に引き込まれている!!!それは日本伝統の幽玄の美にも通じる世界、、。ピアノの詩人、ピアノの俳人、サー・チャールスの心が、やさしくスイングし始める時でもある。
代表作“ビック・ディケンソン・ショーケース”はそんな秀作、傑作のたっぷり詰まった名盤だ。憧れのジャズマンと日本で知り合いになり、1997年には、キングレコードから“サー・チャールス・トンプソン・ショーケース”と言う私たちとの共演レコードを出すことが出来た。その後何度も、日本ルイ・アームストロング協会の例会にゲスト出演。アメリカへ帰ってからも、日本を訪れるたびに特別セッションを持たせてもらっている。昨年、そして今年5月、新浦安ハブでのセッション。ジーパス・クリーパス、エブリバディー・ラブス・マイ・ベイビー、オールド・ファッションド・ラブ、マギー若かりし頃、、、、私たちにとっても、サー・チャールスさんにとっても、日本ルイ・アームストロング協会会員の皆さんにとっても、素敵な想い出のセッションを積み重ねている、、、。こんな素敵な、巡り合わせに感謝!!!
NYサッチモハウス博物館 オープン ニューヨーク報告
ジャズの王様と言えば、何と言ってもサッチモだ!!!
その“王様の家”が、この度博物館としてオープン、去る2003年10月15日、クラーク・テリー、ジョン・ファディス他ジャズ界を代表するジャズメン、ジャズ評論家、ジャズ愛好家が集いオープニングのリボンカット・セレモニーが盛大に開催された。
1971年7月、ルイ・アームストロングがこの世を去つてもう32年になる。彼が亡くなるまで約30年を暮らしたニューヨークの家を、博物館として公開しようという運動が始まったのは1994年。10年越しの悲願が、この度めでたく実現の運びとなったわけだ!! 私たち夫婦も、式典に招待され、並み居る名ジャズメン達と舞台をともにする栄誉に浴した。
サッチモハウス・オープンの日、早朝まで強風、そしてあいにくの雨模様だったが、式典の始まる時間に合わせたように太陽が顔を出し始め、ニューヨーク郊外のクイーンズ区コロナ107番通りのサッチモハウス前は1000人ほどの人で大盛況。世界中から50人を越すプレス、10台ほどのテレビカメラも取材に訪れた。前日の天気予報通りの雨と強風がウソのような秋晴れで終わったのは、サッチモの念力か、、、天もこの記念すべきサッチモの日を、心から祝福してくれているようだった。
今回の記念すべきジャズ・イベントを聞きつけた音楽の友社、榎本孝一郎さんのご尽力で、同社出版の管楽器パラダイスがこのニューヨーク行きの特集を組んでくれることになり、素晴らしい写真家小林洋さんが私たちに同行するという素晴らしい出演、取材旅行となった。
また、サッチモハウス・オープンの記事は、スイング・ジャーナルがジョン・コルトレーン研究でしられるジャズ評論家藤岡靖洋さんを現地派遣、ジャズライフが現地ジャズライターに取材委託、ジャズワールドには私が投稿、、、ジャズ各誌に報道されている。また、時事通信もニューヨーク発として、セレモニーの模様を配信、日本マスコミ各方面にニュースが流れた。
日本ルイ・アームストロング協会会員の皆様、サッチモファン、ジャズファンの皆様お待たせしました!!!その節は、皆様に大変お世話になり、心より感謝いたします!!
ニューヨークのサッチモの家を「サッチモハウス博物館」として公開しようという運動が始まったことを、私たちが知ったのは1996年のこと。ジョン・コルトレーン研究の第一人者で、ニューヨークのジャズシーンに太いパイプをお持ちの、藤岡靖洋さんからもたらされた情報だった。この計画実現の手助けになればと、日本ルイ・アームストロング協会会員ならびにジャズファン約1200人の方々に募金を呼びかけたところ、何と嬉しいことに、それから2ヶ月ほどのうちに多くの方々から120万円、約1万ドルの寄付がよせられた。そして、その年の11月、私達夫婦と日本ルイ・アームストロング協会理事小泉良夫、富子夫妻でクイーンズ大学を訪問、1万ドルの小切手をハウスに手渡すことができた。その後、この計画に賛同して下さった、当時MCAビクター、現在ユニバーサル・ミュージックのジャズ部門のトップ青野浩史さんからも50万円ものご寄付が寄せられ、感激したのがついこの間のようだ。
クラーク・テリー、ジョン・ファディス、フランク・ウェス、、、、、、!!!
サッチモのために集まった、ジャズ界を代表するプレイヤー達!!!
サッチモ・オールスターズの元メンバーも元気な姿を!!
サッチモの家は、家全体が大きなリボンで結ばれ、、、、イキですね、アメリカの人は、、、、、!!!それが大きなハサミでカットされると、トランペッターのジョン・ファディスがハウスの2階ベランダからウエストエンドブルースを、、そして、通りを挟んだ空き地に出来た特設ジャズ・テントのバンドへと演奏が引き継がれた、、、。このジャズテントでは、その後11時から3時まで、それこそ、アメリカのジャズ界を代表するジャズメン、特にトランペッターのオンパレード。私も、クラーク・テリー、ジョン・ファディス、、、、大変な大物の方々20人ほどに囲まれ、晴れの舞台に立ってきた。サミットに出席した日本の首相よろしく、立ち位置に恵まれ、クラーク・テリーと、ジョン・ファディスの隣!!!こんな場に、参加できて、、、一生の感激。
演奏された曲は、全てサッチモゆかりの曲、、、元サッチモ楽団のクラリネット奏者、ジョー・ムラーニの入ったルイ・アームストロング・センテニアル・バンド(リーダー、チューバ奏者デイビッド・オストワルド)の演奏に始まり、1940年頃にサッチモ・ビッグバンドで共演したギター奏者のローレンス・ルーシー(93才)、ドラマーのジョニー・ブロウアー(93才)の入った平均年齢75才を越えるハーレム・ジャズ・アンド・ブルース・バンド。ベッシー・スミスを思わせるブルース&ゴスペルの黒人歌手、キャリー・スミスはウィントン・マルサリス・リンカーン・センター・バンドのトロンボーン奏者、ワイクリフ・ゴードンとテイク・マイ・ハンド・プレシャス・ロードを熱唱。
特別ゲストのテナー・サックス奏者フランク・ウェスとジミー・ヒースは、ドラムのエディー・ロック、ベース、ジェイ・レオンハートを従えジャスト・フレンズを演奏、途中ロイ・ハーグローブが飛び入り。そして、いよいよトランペッター総出演によるトランペット・トリビュート・ジュビリーの始まりだ。!! ジミー・オーエンスのアカペラ・ソロに始まり、ジェレミー・ペルト、ルー・ソロフ、エディー・ヘンダーソンのマック・ザ・ナイフ、クラーク・テリー、ジョン・ハレル、ニコラス・ペイトンによる南部の夕暮れ、クラーク・テリーはもう一曲、ブルースで渋い喉を披露。そして、ランディー・サンキ、テレル・スタッフォード、アンコールでステージに残ったクラーク・テリー、そして私がバーベキュー料理で踊ろうよ、元サッチモ・オールスターズのピアニスト、マーティー・ナポレオン加わり大スイング!!マーティは81才にもかかわらず、18番のセントルイス・ブルースのソロも披露、全く衰えを見せていない矍鑠たるプレイを聞かせてくれた。
トランペット・オン・パレードは続き、ジョン・ファディスのソロで、メモリーズ・オブ・ユー、女性トランペッター、イングリッド・ジャンセン、ウォーレン・バッシェ、マイケル・ロドリゲスが、オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート、ランディー・ブレッカーとマイケル・フィリップ・モスマンがオール・オブ・ミー、ビリー・テイラーがソロピアノ、オール・ザ・シングス・ユー・アーで飛び入りした後、最後のフィナーレは、ジョン・ファディスを中心に、最後まで残っていたトランペッター全員によるジャムセッション、曲は、インディアナ。秋吉敏子カーネギーホール・コンサートのリハから駆けつけたジム・ロトンディも加わり、ハイトーン合戦、、、出演を予定されていたジョー・ワイルダーは体調がすぐれず欠席、ちょっとサッチモ・スタイルの奏者が少なかったには心残りだったが、天国のサッチモに届けとばかりの、トランペットのスリリングな競演。どこからか天の方から、サッチモの“オー・イエース”というかけ声が聞こえたような気もした瞬間だった。
ジャズ界を代表ミュージシャン、ジャズ評論家、
ジャズプロデューサー達が一同に!!
ジャズ・ドキュメンタリー番組の傑作、“ケン・バーンズのジャズ”日本版が、11月末パイオニアから発売されたばかりだが、サッチモハウス・オープン、まるでケン・バーンズのジャズの中に登場するプレイヤーやジャズ評論家、サッチモの友人、音楽業界人の大集合だった!!!この日サッチモハウスに集まったのは、サッチモハウス博物館の館長としてこの記念すべきオープニングを実現させた最大の功労者、マイケル・コグスウェル、元コロンビアの大プロデューサー、ジョージ・アバキアンは86才で至って元気。彼はコロンビア・レコードの名盤サッチモ大使の旅、プレイズ,WCハンディー、ホット5,7,ベッシースミス等、、、のプロデューサー、マイルスのマイルストーン、ラウンドミッドナイトもアバキアン・プロデュース、サッチモのマックザナイフも氏のヒット作だ。サッチモの最も親しい親友、ジャック・ブラッドレイ、元ダウンビート誌編集長で現在ラットガー大学ジャズ研究所長ダン・モーガンスターン、サッチモの新誕生日を発見世界を大騒ぎさせたタド・ジョーンズ、黒人の評論家スタンレイ・クラウチ、、、その他にも、ジャズライターとしてあまりにも有名なナット・ヘントフ、アトランティック・レコードの故ネシュイ・アーティガンの弟で共同経営者の方、、、。
海外からは、スエーデン・ジャズ博物館のスタッフ、カナダ、イギリス、ドイツ等各国のジャズファン、フランスからはホット・クラブ・オブ・フランスのメンバーに加え、テレビ・クルーも派遣されてきていた!!
ミュージシャンでは、元サッチモ・オールスターズのピアニスト、マーティー・ナポレオン、ベースのジャック・レスバーグ、クラのジョー・マレーニ、1940年代のサッチモビッグバンドのギタリスト、ローレンス・ルーシー、、、そしてサッチモのために集まったトランペッター達は、前述した通りクラーク・テリー、ジョン・ファディス(今回のイベントの音楽監督も担当)、ランディー・ブレッカー、ニコラス・ペイトン、ランディー・サンキ、ウォーレン・バッシェ、ルー・ソロフ、ロイ・ハーグローブ、トム・ハレル、ジミー・オウエンス、ジェレミー・ペルト、マイケル・ロドリゲス、イングリッド・ジェンセン、テレル・スタッフォード、ジム・ロトンディ、そして私、また、サックスのフランク・ウェス、ジミー・ヒース、ドラムのエディー・ロック、ベース、ジェイ・レオンハート、、、、。
サッチモの隣人、床屋さん
ルイ・アームストロング小、中学校の可愛い生徒達も、、、!!
サッチモが住んでいた頃からのお隣さん、セルマお婆さんも元気、、、。75才くらいだろうか、スマートな黒人女性、サッチモが生きていた30年前はなかなかの美人、、いや今も素敵ですが、、、私の袖を引っ張ってある黒人を指して、この人がサッチモの床屋さんだよ、と教えてくれた!!時間があったら是非散髪してもらいたかった!!!
また、人がたかっている40才くらいの黒人のかた、、誰かと思ったら、例のサッチモと子供達が階段でラッパを吹いている有名な写真、その少年の一人だった!!!子供が大好きだったサッチモらしく、近くの小学校、中学校の子供達もスクール・フラグを大きく拡げて、セレモニーのお祝いに駆けつけて来ていた。なんと学校の名前はルイ・アームストロング小学校とルイ・アームストロング中学校。サッチモの家のあるコロナの街の人々が、隣人サッチモの名前を称えるためにと陳情し実現した学校名だという。
サッチモハウスのある107番通りのこの区画は、この日を記念してルイ・アームストロング・プレイスと命名されることが市議会で決定され、式典で発表され大きな拍手を呼んでいた。ハウスの向かい側の歩道には、サッチモゆかりのソールフードの屋台がならび、サッチモが大好きだったニューオリンズの料理ビーンズ・アンド・ライスや飲み物を楽しんだ。
サッチモハウスの一般公開は翌16日からだが、この日の出席者には特別に“王様の家”の中を巡るガイド付きツアーが用意され、見学希望者が長い列を作っていた。
ジャズ・テントでのトランペット・ジュビリーの後は、サッチモハウスを管理するNYクイーンズ大学音楽学部の学生達のフルバンドが登場、サッチモハウスで保管する1940年代のサッチモ楽団の譜面を再現、リボンカット式典の終わりを締めくくった。ピアニスト霧生トシ子さんのお嬢さんで、同大学に留学中のジャズ歌手の霧生ナブ子さんがこのビッグバンドをバックにエイント・ミスビヘイビンを熱唱したのが楽しかった。
サッチモハウス博物館オープン!!!興奮は夜まで!!!
10時に始まり午後3時まで続いたリボンカット・セレモニーの興奮は、44丁目にある有名ジャズクラブ、バードランドが主催した「サッチモハウス博物館オープン記念特別ライブ」へと引き継がれ、夜9時から、そして11時からの2ステージ、文字通り、全米また世界からのサッチモ・ファンが式典の余韻を楽しんだ。出演はデイビッド・オストワルドのサッチモ100年記念バンド。1965年からサッチモが亡くなるまで、オールスターズのメンバーとして在籍したクラリネット奏者、ジョー・ムラーニがゲストに入り、トランペッター、ランディー・サンキが素晴らしいプレイを聞かせた。
私たちもゲストで夫婦で出演、同じくゲスト出演の予定だったクラーク・テリーは、残念ながら昼間の式典の疲れがとれず、欠席となった。サッチモハウス、オープン記念ライブと言うことで、ヤンキーズ地区優勝がかかった第6ゲームの夜だったにもかかわらず、超満員の盛況!!サッチモフリークの集まりのようなニューヨーク・ジャズライブ。でも、ゲスト出演した日本からのサッチモ・フリークである私を、皆さん大喜びしてくれ、大変嬉しかった。他人のバンドにゲストで入って、あまり勝手もできないとおとなしく始まったのだが、私のサッチモ張りのボーカルが受けに入って、いつの間にか気がついたらバンドを仕切ってしまっていた、、、、。
この日の前日も、デイビッドのサッチモ記念バンドが出演、私たちはこの日もゲスト出演し、ウィントン・マルサリスとの共演が多い黒人トロンボーン奏者のワイクリフ・ゴードン、コルネットのエド・ポルサー等と共演、一流ミュージシャン達と2日間も演奏をすることができ、大変貴重な経験をさせてもらった。
ニューヨーク新名所 サッチモ記念館へ皆様もお出で下さい!!
ニューヨークの新名所、サッチモ記念舘とも言える、サッチモハウス・ミュージアム。翌16日のオープンから多くの入館希望者が詰めかけている。開館時間は朝10時から4時まで、入館料8ドル。入館者にはガイド付きで、書斎、バスルーム、キッチン、メイドさんの部屋等を巡る、約40分のツアーが用意され、時々隠れたスピーカーからサッチモの肉声を録音したテープが流れる。ベースメントの部屋には、サッチモのトランペット、ゴールドディスクその他ゆかりの品が展示され、スーベニア・コーナーも開設されている。マンハッタンからタクシーに乗っても30ドル、30分くらい。地下鉄でも、もちろん簡単に行くことが出来る。
質素な王様の家の、ちょっとした贅沢に思わず“クスッ”と笑う!!
望めばビバリーヒルズの豪邸にも住むことの出来たサッチモ。しかし彼は、ニューヨークの郊外、ワーキング・クラスの人たちが住むクイーンズ区コロナ107丁目34−56番にある、さほど豪華ではないレンガ造りのこの家にすみ、気さくな隣人達との交流を楽しんだ。ルイは1943年から他界する71年まで愛妻ルシールとともにこの家で暮らし、隣人達を愛し隣人達に愛され、子供達を可愛がったと言う。
ニューオリンズのスラムに生まれ、世界的な音楽家、芸術家となったジャズ王、サッチモ。そんな偉大な“王様”の慎ましやかな生活をこのハウスでのぞき見し、でも、そんな中にもちょっとした贅沢があったりするのを発見して、クスリと笑ったりするのも、感慨深く、また、身を正される様な気にもなるものである。(極めつけは王様のバスルームです、、、)
“コングラッチュレイションズ、ポップス(親爺さん)!!!”
おめでとうございます!!!
2003年、サッチモの旅 2003.11.22 掲載
ニューオリンズの貧民街に生まれたサッチモに新しい誕生日が見つかったのは、今から10数年前のこと。ジャズ史の研究をしていたニューオリンズのジャズ研究家、タッド・ジョーンズが昔の黒人教会の記録の中からサッチモの洗礼記録を見つけたのである。それから世界は大騒ぎ!!!
サッチモが生まれたのは本来の誕生日1900年7月4日か、それとも新しく見つかった1901年8月4日か???いかにも庶民の代表ルイ・アームストロングらしい、楽しいこのハプニングは、生誕100年を迎えたジャズの王様の生誕祝いを、ますます盛り上げる結果となったようだ。
サッチモの生誕地ニューオリンズでは、新しい誕生日から100年目の2001年8月、空港の名をルイ・アームストロング・ニューオリンズ国際空港と改めた!!!そして同時に新しくサッチモの偉業をたたえるジャズ祭、サッチモサマーフェストをスタートさせた。
ニューオリンズとならぶアメリカのジャズの都、ニューヨークでも大きな動きがある。いよいよ、ニューヨーク、クイーンズ区コロナにあるサッチモの家が、来る10月15日“サッチモハウス・ミュージアム”としてオープンする事が決定したのである。オープニング・セレモニーには、ルイの大ファンだったトニー・ベネット、トランペッターのジョン・ファディスほか、ジャズ界を代表するジャズ評論家、ライターの面々大物政治家等の出席も予定され、オープン日の夜には、ニューヨークを代表するジャズクラブ、バードランドで記念の大ジャムセッションも計画されている。
本場、ニューオリンズのサッチモ夏祭りから飛び込んだ招待状!!
“ヨシオ、サッチモ・サマーフェスト2003にバンドで出演していただけますか?!!!”こんなメールが、フェスティバル・ディレクターのサンドラ・ダルタスさんから飛び込んだのは、今年の1月の事だった。若き日5年間生活しジャズを学んだ私達の第二の故郷ニューオリンズ。“ジャズの本場のサッチモ夏祭り”から来たこのメールに、“イエス、イエス、イエス!!!!”興奮して返信のメールを打った。
ジャズの都ニューオリンズの サッチモ夏祭りに出演が決まったことで、私達のバンドの夢のようなバンドツアー”のアイデアが浮かんだ!!ジャズ祭出演のついでに、10月に開館を控えたニューヨークのサッチモハウスを訪問し、サッチモのお墓参りもして来ようと言う、“2003年、サッチモの旅”のバンドツア−のアイデアである。早速サッチモハウス館長のマイケル・コグスウェル氏に連絡を取ると快諾を得ることが出来た。こうして私達、外山喜雄とデキシーセインツ(外山喜雄 tp、vo、外山恵子 p、bj、鈴木孝二 cl、粉川忠範 tb、藤崎羊一 b、マイク・レズニコフ drms)の夢のようなサッチモの旅が始まった。
サッチモハウスで会いましょう!!
全く夏らしくない梅雨空の続く日本を発ち、ニューヨークに着いたのは7月28日月曜日、何とニューヨークも涼しくて、曇り空の続く“つゆ模様”だった。
“一日予定を開けて有りますので私が特別に皆さんをご案内します。サッチモハウスの前で朝10時に会いましょう!!!”と言うハウスの責任者、マイケルさんの言葉はほんとうに嬉しかった。
サッチモハウス訪問の朝、NY出身のドラマー、マイク・レズニコフが一緒と言っても慣れないニューヨーク。時差ボケの上に早起きなので、行きはタクシー2台に分乗して行くことにした。マンハッタンから約30分、35ドルくらいだったろうか、いかにもニューヨーク郊外と言った感じのコロナの街、107番通り34−56番地、サッチモハウスの前で私達を待っていたコグスウェル館長は、セインツのメンバーと会えて、また、私達との再会をとても喜んでくれた。
コグスウェル氏がサッチモハウスを博物館にしようと運動していると私達が聞いたのは、1996年の春だった。日本ルイ・アームストロング協会の会員の皆さんや仲間のジャズファンに寄付を呼びかけて見たところ、嬉しいことにアットいう間に100万円の寄付が寄せられた。(皆様、その節は本当にご協力有り難うございました!!!やっと、今年10月15日、オープン致します!!!!)この暖かいご寄付を届けに、日本ルイ・アームストロング協会理事、小泉良夫さんご夫妻とマイケルさんを訪ねたのが、その年の11月。実に、それ以来7年ぶりの再会だった。
サッチモハウス館長さん自らのご案内で、バンド全員ジャズ王の家をくまなく案内してもらうという贅沢なツアーを堪能させてもらった後、ハウスの入り口のステップに座って記念撮影をした。サッチモが子供達にラッパを吹いてあげている有名な写真があるが、あのステップだ。撮影をしていると隣の家からお年寄りが出てきた。サッチモの生きていたころから隣に住んでいるという、セルマお婆さん!!そこで、階段に座ったままバンド全員で楽器を出し、演奏をすることにした。サッチモ楽団のテーマ、南部の夕暮れを演奏し、私がサッチモで歌い出すと、セルマさんのビックリしたこと!!久しぶりに懐かしい人に再会したような、お婆さんの表情がなんだか嬉しかった。
マイケルさんが用意してくれた車2台に分乗して、ハウスから10分ほどの所にあるクイーンズ大学内のサッチモ資料室へ移動。資料室に保存されたサッチモの家の貴重な資料、音源などを見せてもらっていると、マイケルさんが奥から大きな楽器ケースを持って現れた。サッチモのトランペットである!!ゴールドプレートのセルマー。一本の楽器は、1964年、私が楽屋に忍び込んで吹かせてもらった楽器である。中には、ベルの部分にサッチモのサインが刻印されているもの、また、サインの形に金属が張り付けてある楽器もあった。途中、近くの高校の生徒達がフィールド・スタディーでサッチモハウスを訪問、15人くらいのグループがジャズとサッチモの講義を受けに来た。日本からのミュージシャンと言うことで紹介され、ワンダフルワールドをアカペラで歌わされる羽目になった。
その後、サッチモ夫妻の眠るフラッシング墓地にも案内していただき、バンド全員大いに感激した一日だった。マンハッタンへの帰りは、地下鉄でと言うことで、A列車ならぬ7番列車で約25分、アットいう間に8番街のホテルに帰ってきた。
ニューヨークの一流ジャズクラブ、バードランド。毎月曜日には秋吉敏子ビッグバンドが出演、火曜日がデューク・エリントン記念バンドの日などとなっている。この火曜日の早い時間には、サッチモ・センテニアル(100年記念)・バンドがレギュラー出演、マイケルさんの紹介でバードランドを訪れたお陰で、このバンドと共演させてもらうことが出来た。
何とお客の中に、かつてのコロンビアレコードの大プロデューサー、ジョージ・アバキャン氏がいるではないか。86才というのに実に若々しく、これから私達が向かうニューオリンズのサッチモ・サマーフェストでも講演する事になっていて、そちらでの再会を約束した。あまりにも有名なジャズ・ドキュメンタリー映画“真夏の夜のジャズ”のミュージック・ディレクターもつとめられた氏のジャズへの情熱は、このお年になっても衰えることを知らないらしく、その晩トランペッター、クラーク・テリーが出演していたジャズクラブ、イリジウムへハシゴをすると、そちらでも姿を見かけた!!
いよいよニューオリンズ、サッチモ夏祭りへ!!!
ニューオリンズは、大河ミシシッピー河がメキシコ湾にそそぐ河口近くにある、亜熱帯気候の街だ。ギラギラと輝く太陽に地面が熱せられた午後ともなると、巨大な入道雲が立ちのぼり、凄まじい雷鳴とともに激しいスコールに見舞われる。細い通りを渡っただけでも、靴の中までずぶ濡れになるほどの雨の激しさである。サッチモ・サマーフェストはそんな亜熱帯の照りつける太陽と熱気の中、野外で開催される、文字通り“熱い”ジャズ祭だ。激しい落雷のため拡声装置(PA)がダウン、バンドはノーマイク、生音で演奏しなければならない事もある。そんなハプニングも、かえって本場のサッチモ夏祭りの雰囲気を盛り上げている様な気がする。
ニューヨークに水曜日まで滞在、お昼頃ラガーディア空港を発ち、途中飛行機を乗り継ぎ、東京からやってきた、日本ルイ・アームストロング協会理事の小泉良夫さんご夫妻と合流。ニューオリンズの“サッチモ国際空港”に降りたったのは木曜日の夕方だった。降りたとたん、空気中の熱気と湿度の高さに息が詰まりそうになる。
サッチモの故郷で始まった忙しい毎日!!
7月31日(木曜日) サッチモ空港に到着するとすぐにレンタカーを借りホテルへ。チェックインを済ませ、ジャズ祭主催のレセプションに出席、その足でジャズ小屋プリザベーション・ホールに寄り、メンバー全員手分けしてドラムセットをホテルへ運んだ。バーボンストリートの音の洪水の中、裸のバスドラムやタムタム、ハイハット等を持ったバンドメンバーが行く、、、なんだか学生時代に戻ったような、と言うか、ニューオリンズらしいと言うか、、。
8月1日(金曜日) 朝一番にニューヨークで会ったジョージ・アバキャン氏の講演を聴きに行く。テーマは、“実現しなかったサッチモとデューク・エリントン楽団の共演レコード企画”。当時アバキャン氏は、コロンビアレコードの大プロデューサー。私が学生時代、クラシックジャズシリーズとして評判だったサッチモのホット5,7等のシリーズ、ベッシー・スミス、ビックス・バイダーベック等、1938年頃の78回転SPレコード・アルバムも、50年代のLP企画も、氏のプロデュース。サッチモ・プレイズ・WCハンディー、プレイズ・ファッツ・ワーラー、アンバサダー・サッチ、全て彼のプロデュース。そればかりではない、彼の企画にはデューク・エリントン、グッドマン、マイルス、ロリンズからデイブ・ブルーベック、セロニアス・モンクまで。そんな大プロデューサーが夢にまで見た、エリントン楽団にサッチモをゲストに迎える企画。惜しくも実現することはなかった。86才になった今、あたかも昨日の事のように鮮明に、また、実現しなかったのが今でも悔しくて仕方がない、と語る氏の情熱に熱いものを感じた。(この共演レコードは氏の希望した形ではなく、サッチモ・オールスターズにデュークのピアノを入れると言う妥協した形で、後年ルーレット・レーベルで実現した。)
午後、レンターカーを運転しニューオリンズ郊外のベース奏者の家を訪問、ベースとアンプを借り、夕方は再び講演とジャズフィルムの会へ。講師は、サッチモの親友ジャック・ブラッドレイ氏とアバキャン氏。フィルムは、サッチモは世界を巡る、“このフィルムは世界にこれだけしか有りません”と言うブラッドレイ氏のコメントを、後で、アバキャン氏が、いえ、日本のミスター・トヤマも持っています、と訂正してくれた。
この日の夜は、ジャズバー、スナッグハーバー等があるちょっと住宅街に近いフレンチマン・ストリートのあらゆる店が、ジャズの店となるジャズ・ストリートが催された。パスを持っていればどの店にも入ることが出来る。サッチモ・クラブ・ストラットと名付けられたこの催し、通りをニューオリンズ・スタイルのブラスバンドが練り歩き、200メートル位の間に10数軒のジャズの店が開店、なかなか楽しめる。
ペリー来航150年記念イベント
今年はペリー来航150年にあたり、私達がジャズ祭で演奏することを知った在ニューオリンズ日本総領事館から連絡を頂いた。日米150年記念イベントへの出演という、光栄な依頼だった。
8月2日(土曜日) 朝8時半、ドラムやベースを全部車に積んで、記念コンサートの会場、レイクサイド・ショッピング・センターへ行き、1時間半のステージ。若いころ5年間この街に住み、オールドタイマー達からジャズを学んだ私達夫婦にとっては、特別の感激があった。ニューオリンズの人々が喜んでくれているのを見ると、当時お世話になった人々の想い出がよみがえってきた。この街で学んだ音楽が日米150年の親善の役に立っている、、まるで故郷に錦を飾っているようで、すっかり感慨に浸ってしまった。
記念コンサートを終えると、私達夫婦は、講演会場へ向かいセミナーに出席。“インターナショナル・ルイ(サッチモが海外に与えた影響)”と言うセミナーの、講師の一人としての出席、お得意のサッチモの楽屋に忍び込んで、ラッパを吹かせてもらった話で、大いに聴衆に受けた。講演を終わり外に出ると、そこは大スコール、隣にある野外のコンサート・ステージでは、すっかり演奏が中断していた。翌日の私達の出演もこの時間帯、これは危ないなと、いやな予感がする。
アットいう間にスコールが上がり、夕方5時からスタートするバスツアー、“ルイ・アームストロングのニューオリンズ”にバンド全員で参加。このツアーは、例のサッチモの新しいバースデイを発見したジャズ研究家タッド・ジョーンズ氏がナビゲーターとなり、ルイの生まれた通りジェイン・アレイ跡、少年時代を過ごしたパーディド・ストリート界隈、少年院ウェイフス・ホーム跡、その昔バディー・ボールデンやバンク・ジョンソン等ジャズのパイオニアが演奏したイーグル・サルーンのホールを巡るスペシャルなもので、かなりディープ、サッチモのスピリットが出てきそうな素敵なツアーだった。元ダウンビート誌編集長で現在ラットガー大学のインスティチュート・オブ・ジャズ・スタディーズの所長を務める、ダン・モーガンスターン氏とこのツアーで一緒になり、仲良くなった。
約2時間のツアーを終え、ルイ・アームストロング公園でバスを降りると、今度は、公園内のマハリア・ジャクソン劇場でのスペシャル・コンサートに出席。ウィントン・マルサリスの父、エリス・マルサリスのピアノソロに始まり、地元オーケストラによるサッチモとエリントンへのトリビュート、最終ステージはゲストの歌手、パティー・オースチンが登場、お得意のエラ・フィッツジェラルド・トリビュートで幕を閉じた。途中ニューオリンズの現市長も紹介されたが、ニューオリンズ・ジャズに会わせて踊る、当地独特のセカンドラインの踊りがヤケに上手な、イカした黒人市長さんだった。
8月3日(日曜日) 私達のジャズ祭出演の日。この日も分刻みの一日だった。ルイ・アームストロング公園の裏手、トレメ地区にあるセント・オーガスチン教会でサッチモ・サマーフェストの為の特別のジャズミサが催され、出席。この教会は、ソプラノ・サックスの名手シドニー・ベッシェが昔所属していた教会で、黒人教会独特のゴスペルと牧師の説教と歌が素晴らしい。ピアノ奏者は、ウィントン・マルサリスのドラマー、ハーリン・ライリーのお母さんだと言う!素晴らしいゴスペルの世界に酔うこと2時間、ミサが終わると教会の前から、ジャズのブラスバンド・パレードがスタートする。このトレメ地区出身のトロンボーン・ショーティーの顔も見える。
このジャズミサやパレードを見ていて、このサッチモ・サマーフェストには、始まったばかりのジャズ祭の手作りで、フレッシュな姿が生き生きとしていると感じた。ややもすると、回を重ねるとジャズ祭は徐々に大きくなって行き、本来の姿を忘れた集金マシーンのように商業化して行く。この若いジャズ祭には、始まったばかりのころ、20数年前のニューオリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテイジ祭の様な活気があると思った。
私達が出演は3時から4時30分、その昔アメリカ南部同盟の造幣局のあったUSミントと呼ばれる建物を囲む野外ステージの一つ、サザン・コンフォート・トラディショナル・ジャズ・ステージで行われた。このミントの建物には有名なニューオリンズ・ジャズ博物館がある。WWOZのラジオ局が実況中継し世界へインターネット放送で配信もされた。スコールを心配していると案の定、2時に大雷鳴がとどろき土砂降りの雨に見舞われた。2時半、音出しの30分前にステージへ行くと、雨は小降りになったものの、スピーカーは全てカバーをかぶり、女性歌手が手をメガホン代わりにして生声で歌っている!!
やはり、PAがダウンしたのである。私達のステージは、サッチモの歌が売りの一つ、どうしたものかと動転したと同時に、本場ニューオリンズの晴れ舞台で、上がりそうになっていたドキドキが何処かへすっ飛んでいってしまった。ラジオの中継も入っていたせいか、幸いサウンドは私達のステージ直前に回復、幸い私達デキシーセインツのサッチモ・トリビュートをオン・ステージする事が出来た。
サッチモ・サマーフェストは、サッチモ学会と言っても良いほどサッチモに関しては一言ある研究者達が集まっている。前述のダン・モーガンスターン、ジョージ・アバキャン、ジャック・ブラッドレイ、そしてタッド・ジョーンズ、スタンレイ・クラウチ、、こうした評論家の顔ぶれは、まるであのジャズ・ドキュメンタリー、ケン・バーンズのジャズのコメンテーターがそのまま登場したようである。
私達のステージが始まると、全員が興味津々聞いてくれている。ダン、ジョージ、ジャックに至ってはステージ正面にかぶりつき、大変光栄で嬉しかった。サッチモ・オールスターズのテーマ、南部の夕暮れでスタート、最後のコーダの部分で、“日本にジャズという素敵な音楽を下さったサッチモとニューオリンズとアメリカの皆さんにお礼を言います、、、サンキュー・エブリボディー”と歌って締めくくったら、会場は大喜び!!
プログラムが進むにつれ、評論家諸氏の顔からは笑みがこぼれ、日本から来たグループがこんなにサッチモの世界を実践しているのが、信じられないと言った表情。お陰で私達もすっかりリラックス。1964年サッチモの楽屋に忍び込んだ話を、サッチモの声色を使って披露すると皆転げ回って喜んでいた。サッチモのスキャット・ボーカルの初録音となった、ホットファイブのヒービー・ジービーズの再現をやったときなどは、彼らの興奮が爆発!!!1926年サッチモがこの曲を録音したとき、持っていた歌詞カードを途中で落としてしまい、とっさにバ、バ、ズ、ゼイと適当な言葉で歌った、、と言う逸話を、実際に譜面を途中で落として、芝居っけタップリに再現したのである。
その時の評論家諸氏の喜びようは無かった!!まるで新しい玩具を見つけた子供のような目になってしまって、ステージ前を笑い転げながら駆け回っているのである。
ニューオリンズ独特の煉瓦造りの建物、石版の屋根板とつきだした煙突、、演奏しながら、そんな目の前のスカイラインの上に広がる、サッチモの故郷の空を見上げていると、何とも言えない喜びがこみ上げてきた。
8月4日(月曜日) サッチモの誕生日当日!!!この日も忙しかった。日本ルイ・アームストロング協会が10年間つづけてきているニューオリンズの子供達への楽器プレゼント。今年も、日本通運のご協力を得て、67点の楽器がニューオリンズに到着、その一部28点が、プリザベーション・ホールが今度始める子供達のバンド・プログラムに、39点がG.W.カーバー高校に贈呈された。
朝11時からの高校での楽器贈呈式に向かう。市の中心から15分ほど、近所に片親や生活保護を受けている家庭の子供達が多く住むプロジェクトと呼ばれる生活保護者用アパート、ディザイヤー・プロジェクト、フロリダ・プロジェクトを持つ問題の多い高校。校長先生、バンド指導の先生、市のバンドプログラム担当、そして生徒と生徒の父兄50人ほど出席、贈呈式を行った。正面には、私達の贈呈した楽器が並べられ、その前には、修理不能なほど壊れて使えなくなったスーザホンが7本位並んでいた。かつては、この学校にも豊富な楽器と大編成のブラスバンドがあったことが偲ばれる。
しかし、20年ほど前から始まった学校経費の削減で、情操教育等の予算が先ずカットされて行ったのだろう。予算カットで音楽教室が閉鎖になる話は、リチャード・ドレイファス主演の映画、陽の当たる教室にある通りである。プレゼンテーションは、心からの感謝で迎えられた。私達も、バンドで聖者の行進とワンダフルワールドをプレゼント。ついで、カーバー高校のバンドによる、演奏が披露された。トラディショナルなスタイルのジャズではないが、7,8人編成のバンドの少年達とリーダーの男の子のエネルギッシュな音楽、、、。まさに、黒人文化のエネルギーの爆発と言った音、そして、動き、、。音楽は、ヒップホップ系と言おうか、、でも、かつてのジャズが持っていたとてつもないエネルギーの爆発を持った、強烈なパーフォーマンスだった。
こんな子供達を、日本にも紹介してあげたいものだと思った。黒い肌の丸々とした体格のチヤリーダー達も紹介されたのだが、残念ながら場所が狭く演技を見ることが出来なかった。拍手喝采の後、父兄の皆さんが手作りで用意してくれた、心のこもったニューオリンズ料理のランチをご馳走になり、学校を後にした。楽器贈呈式には、当地の新聞社の女性名コラムニスト、シーラ・ストラウプさんも出席、翌日のタイムス・ペキューン社会面トップに、“サッチモの想い出とともにサンクス”のタイトルで、素敵な記事が掲載された。102回目のサッチモの誕生日。サッチモもこのプレゼントを喜んでくれたと思う。
サッチモのバースデイ・ケーキカット 12時半からサッチモ公園で始まる、ケーキカットへ車で急ぐ、、、が、ケーキカットにはタッチの差で間に合わず、、、ケーキはもう半分食べられていた!!でも、サッチモの銅像の前、100人程が集い、アカペラのゴスペルグループが歌い、トロンボーン・ショーティーがトランペットで参加していた。私も、フェスティバル・ディレクターのサンドラさんに促され、トランペットを出してショーティーと演奏に加わった。気が遠くなりそうにな太陽と熱い空気。その中にあの86才のジョージ・アバキャン氏もいた。午後は、ミシシッピー河下りのサッチモ・ボートライドにも参加するのだという!!!そして、夜も、パーティーが有るらしいので、一緒に行かないかと言う。私達も、昔私たちが世話をしていた天才ドラム少年、シャノンが彼の家で私たちの為ハウスパーティーを開くからと招待されていたので、よくジョージの話を聞いみると、同じパーティーなので笑ってしまった。
夕6時半、サッチモ公園すぐ裏手のシャノンの家。典型的なニューオリンズの家の裏庭、例によってその日も、パーティー直前まで、大スコールがあり、地べたもイスもテーブルもしっとり湿っている。奥さんが心を込めてこの日のために用意してくれた手作りの料理がならび、大きなバケツいっぱいにビールやソフトドリンクが冷えている。ラジカセで音楽をガンガン鳴らし、その内、楽器を持ち出しジャムセッションが始まる。この日のメンバーは、すごかった。私たちセインツのメンバーに加え、シャノンのドラムはもちろんのこと、ご当地一のピアニスト、盲目のヘンリー・バトラー、トランペットのスター、カーミット・ラフィン、30年以上前から友人で同じくペットのグレッグ・スタッフォドもやってきた。こちらでコーディネートをしてくれた美貴ローボックさんのご主人、ピアニストのスティーブもセッションに参加した。
86才のジョージ・アバキャン氏、、超人的だった!!Tシャツがグショグショになる熱気と湿気の中、最後近くまでかぶりつきで音楽を楽しみ、帰り際に私に抱きつくと、自分も汗だくなのに“君のシャツビショビショじゃない、シャツを着替えなさい”、と忠告、、、。夜ともなると危険この上ない黒人街トレメのど真ん中、黒人の家の裏庭で夜遅くまで続くパーティー、、、、。日本ルイ・アームストロング協会理事の小泉さん夫妻、セインツのメンバーも心ゆくまでニューオリンズを堪能した一夜だった、、。私たちは、シャノンやグレッグとの30数年前の懐かしい昔話に、遅くまで花が咲いた。
最終日 8月5日(火曜日) 最終日、夜にニューオリンズ総領事館が総領事公邸での夕食会に私たちバンド全員を招待して下さった。隣の家は、昔トランペッターのアル・ハートが住んでいた家という高級住宅街にある素敵な公邸。石川正紀総領事が大変ジャズと音楽にご堪能で、日米150年のイベントをセッティングをご担当になった素敵な女性領事館員、永瀬沙織さん、副領事の河原仁さん、コーディネーターの美貴ローボックさん、協会理事の小泉さんご夫妻、ゲストのとの話が盛り上がり、美味しい日本料理とアルコールをいただきながら、全員が、“2003年、サッチモの旅”、最後の夜の余韻を遅くまで味あわせて頂いたひとときだった。
日本に帰ると、ジョージ・アバキャン氏から早速メールが入っていた。10月15日のサッチモ・ハウスのオープニングに是非夫婦で出席して欲しい、ついては、オープニング・セレモニーで予定されている演奏に、ジョン・ファディス(tp))ほか、そうそうたるメンバーとともに参加して欲しい、また、当日夜、バードランドで予定されている記念セッションにも出演出来るか、、と言う嬉しすぎる問い合わせだった。“もちろん、楽しみにしています!!See You in New York”と返信したのは、言うまでもない。
フェスティバルの私たちのステージでは、もう一つ嬉しいことがあった。ジャズ祭スタッフの一人で、市会議員のジャッキー・クラークソンさんが、自ら私たちのバンドを紹介、加えて名誉市民証と感謝状を手渡して下さったのである。この名誉は、日本ルイ・アームストロング協会会員の皆様全員に頂いたものだと思っています。ここに、皆様に心よりお礼申し上げます。
楽器のご寄付とうれしいお便り
日通のご協力で、67点の楽器がニューオリンズへ
8月4日 サッチモの誕生日に、贈呈
記事が、タイムス・ペキューン紙 社会面トップに掲載される!!
サッチモ・サマーフェスト2003
外山喜雄とデキシーセインツ ステージでトランペットを贈呈
渋谷 サイトウ楽器からのご寄付
サッチモ・サマーフェスト20038月3日,デキシーセインツのステージに先立ち、東京渋谷のサイトウ楽器ご寄付のトランペットを、ジャズ祭に寄付する贈呈も行った。この楽器は、セインツのドラマー、マイク・レズニコフさんがスタジオを借りリハーサルしている、同楽器店(私も、また、クラブの先輩後輩諸氏も、学生時代以来練習スタジオでお世話になっています)がマイクさんから日本ルイ・アームストロング協会の楽器プレゼントの話を聞き新品のヤマハトランペットをご寄付下さったもの。ジャズ祭では、将来有望な生徒の表彰とプレゼントを考えている。
トレメの子供にあげて下さい!!
ドラマー、シャノンさんにトランペットを託する!!
外山喜雄、恵子が1972年頃世話をしていたドラマーのシャノン少年。当時10才そこそこだったシャノン君の天才振りは、ニューオリンズ行進曲に詳しい。今回のツアーでは、スラム街として知られるトレメのど真ん中に住む、シャノン君の家でセインツのためのパーティーが催された。セインツのドラマー、マイクさんの友人、西田太洋さんからご寄付いただいたトランペットを、トレメの有望な子供にと、シャノン氏に託した。
楽器のご寄付
チューバ 杉並区教育委員会 指導主事 坂田篤様
メロホーン9本 WJF会員 宇田川允敏様のご紹介で、高井戸東小学校の楽器を頂きました。
ギターと弦 杉並区 水野聖人様(セインツ トロンボーン 粉川忠範様ご紹介)
トランペット 渋谷区 サイトウ楽器様
コンガ (セインツ、ドラム マイク・レズニコフ様のご紹介)
ハモニカ
クラリネット リード
トランペット 横浜市 西田太洋様 (マイク・レズニコフ様 ご紹介)
トロンボーン ラグピッカーズ トロンボーン 故 中村正彦様の遺品
(ラグピッカーズのバンジョー奏者 日向美樹様のご紹介)
コルネット 郡山市 本田 稔様(会員) (サッチモ祭にお持ち頂きました)
トランペット 文京区 松本圭市様(会員)
大変珍しい骨董的価値もある、ブッシャーのトランペットです。私が代わりに1本トランペットを寄付して、この珍品はキープさせていただくよう、ご了承いただきました。
ギター 大宮市 小長井 浩(会員)